無意識とは:
- 記述的には、一定時点において意識されない事象や行動を意味する用語として、形容詞や副詞として用いられる
- ジークムント・フロイトの精神分析理論による局所論的な立場からのもので、心的構造ないしは心的体系を構成している一領域(局所)を意味する用語。通常では意識化不可能な心的内容を含んでいる領域、を示す。つまり、意識および全意識に対する無意識である。
- 力動的(dynamic)な立場からは、無意識の内容、つまり、「無意識的なもの」を意味する。それは、抑圧の作用によって意識―全意識系に現れることを阻止されているものである。なお、これらは快感原則にしたがっている。
深層心理学における無意識概念
深層心理学とは、夢、空想、ふと思いついたことなどを解釈して精神の深層を探究しようとするものである。人間の意識現象や行動を表面にあらわれたものによってでなく、意識には達しない深い心的過程、つまり無意識から説明しようとする。
フロイトの無意識
・自我(エゴ)・超自我(スーパーエゴ)_ウィキディープ-249x300.png)
精神の各部分を相互に関連づけて説明するのに、氷山のような比喩がよく使われる。
ジークムント・フロイトは、彼が最初に定式化した無意識の概念は、抑圧の理論に基づいていると名言している。つまり、心の中に記憶として存在しているが、自分では意識的にも何かのきっかけによっても思い出すことができないものを無意識と呼んだ。これは、辛い体験や自ら抑圧した記憶や思い(例えば、友人の夫を好きになったが、倫理上問題があるとその思いにふたを閉じる等。)であり、本人の意識の意識できない深いところに眠っているとされている。フロイトは、こういった無意識は抑圧されても心の中に残り、意識から切り離されても作用し、特定の状況下で再び意識の中に現れるというサイクルを仮定した。この仮説は、ヒステリーの症例を調査した結果、患者には自覚のない観念や思考を参照しなければ説明できない行動が見られること、そしてその行動が幼少期に抑圧された(現実または想像の)性的記憶に関連していることが分析から明らかになったことに基づいている。
その後、1915年の論文「抑圧」(標準版XIV)で抑圧の概念を再定式化(再構成)した際、フロイトは無意識において、近親相姦に対する普遍的なタブーに関連する一次抑圧(もともと生得的に存在している)と、個人の生活史の産物(自我の発達の過程で獲得された)で、ある時点で意識されていたものが意識から拒否または排除されるという抑圧(「追放後」)を区別していることを紹介している。
錯誤行為
また、無意識は、直接観察することはできないが、日常生活における言い間違いや度忘れといった「錯誤行為」(その他には「夢」やヒステリーなどの神経症といった「心の病気」)としてあらわれると説明した。錯誤行為とは、例えば学校の先生を「お母さん」と間違えて呼んでしまったり、議長が初めの挨拶で「これから会議を”閉会”します」と言い間違えることを指し、これは本人の無意識の願望のあらわれたものとされている。
しかし、言い間違いや度忘れの全てが無意識のあらわれとは必ずしもいえず、疲れや寝不足といった注意力の欠如や散漫などの場合もあることには留意しておきたい。
心的構造論
フロイトは1915年の論文『無意識』(標準版XIV、Standard Edition XIV)で示した無意識の精神的プロセスに関する彼の理論の発展と修正について説明する中で、彼が用いる3つの観点、すなわち力学的観点、合理的観点、局所論(topography)*的観点を特定している。
力学的な観点は、第一に抑圧による無意識の構成、第二に不要で、不安を誘発し、思考をそのように維持する「検閲」のプロセスに関するものである。ここでフロイトは、ヒステリーの治療における初期の臨床研究から得た観察結果を利用している。
合理的な観点では、抑圧された内容「性的衝動の変遷」が、症状の形成と夢や失言のような通常の無意識の思考の両方の過程で複雑な変容を遂げる軌跡に焦点が当てられている。これらは、フロイトが『夢診断』や『日常生活の精神病理学』で詳細に検討したテーマである。
これらの前者の視点はいずれも意識に入ろうとしている無意識に焦点を当てるのに対し、局所論(topography)観点は、無意識のシステム的特性、凝縮や変位(置換)といった特徴的なプロセスや動作モードを前面に押し出した転換を意味する。
この「第一の局所論(topography)」*は、3つのシステムからなる心的構造論を提示している。
*広義の局所論は「第一の局所論」と「第二の局所論」を含むが、一般に「局所論」といえば「第一の局所論」を指すことが多い。「第一の局所論」を単に「局所論」、「第二の局所論」を「心的構造論」(もしくは、単に「構造論」)と呼ぶこともある。

フロイトの初期の心的構造論(局所論)
- 意識システム – 現実原理によって支配される意識。
- 前意識システム – 無意識的なモノの提示が、意識に利用可能になるための前提条件である言語の二次プロセス(言葉の提示)によって束縛されている前意識。
- 無意識システム:「相互矛盾からの免除、…破廉恥な行動、時を超越した精神的現実(心理的現実)による外部の置き換え。 」 (‘The Unconscious’ (1915) Standard Edition XIV) によって特徴づけられる快楽原理によって支配される 「主要プロセス」 の精神。
後期の作品、特に『自我とイド』(1923)では、イド、自我、超自我からなる「第二の局所論(topography)」が紹介されているが、これは第一のトポグラフィーに置き換わることなく重ね合わされている。この無意識の概念の後の定式化では、イドは本能や衝動の貯蔵庫を構成し、その一部は遺伝的または生得的であり、一部は抑圧されたり後天的に獲得される。このように、合理的な観点から見ると、イドは心的エネルギーの主要な源であり、動的な観点から見ると、イドの多様化である自我や超自我と対立している。
ユングの無意識
ユングは意識と無意識に着目しており、自我(エゴ)*と自己(セルフ)*という概念で心を捉えた。自我(エゴ)とは意識の中心のことで、自己(セルフ)とは”意識”と”無意識”を統合した「全体の中心(全領域の中心)」を意味する。ユングは、人間が完全で、統合がとれ、穏やかで幸福になるのは、個性化過程が完了したとき、つまり意識と無意識が互いに補完し合い、平穏であるときだと考えたのである。
*「自我(エゴ)」…自己からの分離によって、一部分のみ選択され意識(表面)化されたもの。自己の上に浮かぶ島のようなもの。私個人固有のもの。
*「自己(セルフ)」…人間の意識も無意識も含めた心全体の中心にあるもの。自我を包含している全体的で完全なもの。普遍的に人間すべてがもつもの。
ユングが唱えた心の構造

心の構造
心は、「意識」「個人的無意識(個人体験の総体)」 「普遍的無意識(人類共通体験の総体)」から構成されていると考えている。そのなかでも、無意識の領域を重視し、あたかも、大海(無意識)に浮かんだ小島(意識)のように、無意識の意義を認めた。 また、意識の中心を「自我」、無意識を含めた心全体の中心を「自己」とし、自我が心をコントロールすることの限界を考えた。フロイトが「イド(欲望)あるところにエゴ(自我)あらしめよ」と言い自我の機能を重視したのに対し、ユングは自我が自己の意向を理解し従っていくことを重視した。
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