大塔宮護良親王 とは | 意味・まとめ by wikiSmart ウィキスマート

大塔宮護良親王(おおとうのみや/だいとうのみや もりよししんのう/もりながしんのう)は、後醍醐天皇の第3子(近代の護良親王研究者である新井孝重によると第1子とする見方の方が自然)である。
比叡山延暦寺座主。

誕生

延慶元年(1308年)、後醍醐天皇の皇子として出生。
母親については定かでない。

元弘の変

僧兵を後醍醐天皇側に導入する為に、護良親王は比叡山延暦寺座主に就任。
元弘2年(1332年)、親王24歳の時、吉野で、また、楠木正成は河内で挙兵し、倒幕に傾いた。
幕府の御家人の足利高氏は幕府に反旗を翻し、六波羅探題を陥落させた。
更に、関東では新田義貞が鎌倉を陥落させ、執権を掌握していた北条氏らが自害し、
鎌倉幕府を滅亡させた。

吉野

護良親王は、千早城城主の楠木正成と意気投合し、挙兵したと言われている。
全体像をみれば、倒幕派は優勢となったとみれるが、護良親王の吉野における挙兵そのものは、最後まで優勢とは言い難かったとされる。

建武の中興

後醍醐天皇は、天皇親政を行い、貴族中心の政を行ったところ、足利尊氏と対立する。
後醍醐天皇は、護良親王を征夷大将軍に任命した。
護良親王は、足利尊氏を討伐すべきと後醍醐天皇に進言するも、
足利尊氏から「親王は皇位を狙っている」との讒言を後醍醐天皇は信じ、
足利尊氏に身柄を渡される。護良親王は足利尊氏の弟、足利直義の家来に斬殺される。

子女

護良親王は、皇統の興良親王という実子がいたことは史実であるが、それ以外に子女が居たということは定かではない。
1級史料にされていない尊卑文脈や大塔宮家系図などから、たくさんの子女が確認できる為、
護良親王に隠し子がいたことについては否めないが、史実だと確証もできないのが現状である。
また、護良親王に子女がいたとされる文献は、多数存在するが、公には出回っていない。

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