『器官劣等性の研究』(Study of Organ Inferiority and its Psychical Compensation)は、1907年に個人心理学の創始者であるアドラー(37歳)が身体的な障害、いわゆるハンディキャップを持った人たちがどのように対応したか研究したものである。
出版経緯
アドラーは幼い頃、幼い弟の死を経験し、自身も肺炎にかかり生死をさまようといった経験からアドラーは医師になること決意した。また、アドラーはくる病により自由に体を動かせず、それに対して劣等感を抱えていた。
『夜になって医師が呼ばれた。アルフレッドはぼんやりと意識を取り戻した。そして自分の上に見知らぬ人が浮かんでいるのを見た。アルフレッドを診て、弱い脈を取った後で医師はレオポルト(父)のほうを向いていった。「もう心を痛めることはありません。この子は助かりません」アルフレッドは死刑の宣告がされたことがよくわかった。とりわけルドルフの不幸な死のすぐ後に起こったことだったからである。』その後、奇跡的に肺炎から回復したアドラーは、その時に「医師になる」ことを決意したといいます。
引用:『アドラーの生涯』(金子書房)
ウィーン大学の医学部を卒業後、アドラーは総合病院でアウグスト・フォン・ロイスものもとで眼科で働き始める。そこで視覚障害のある人たちと接し、患者たちからある2つの洞察を得た。視覚が劣っている分、聴覚や触覚といった他の器官が優れていることと、視覚障害という困難を様々な努力し乗り越えようとする傾向があることを発見した。
その後、ウィーン郊外であるツェーリンガッセ 7 丁目のレオポルトシュタット地区にて内科医として開業した。そこは貧しいユダヤ人が多い地区であり、プラター遊園地が近いためそこで働くサーカス団員の大道芸人や道化師が多く来院した。その際にアドラーは、身体的機能に何かしらの問題を抱えている団員が多いことに気づく。さらに、団員たちは身体的な問題を抱えながらも、サーカス団員としてその問題に向き合い克服をし、高度な身体能力を獲得していることにも注目した。
劣等感に対する補償
アドラーによれば、自己の器官の劣等性に由来する劣等感が神経症の原因になることもあるが、それがむしろ人間を成長させる原動力にもなりうるという。つまり、過去の性的外傷体験(トラウマ)を重視するフロイトの原因論的な見解や当時ウィーンで診察ばかり重視する態度に反対し、目的論的な立場から自己の器官の劣等性に由来する劣等感とそれを補償しようとする「権力(優越)への意志」を説いたのである。
コメント