ユングの生涯 とは | 意味・まとめ by wikiSmart ウィキスマート

心理学
カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日-1961年6月6日)は、スイス生まれの精神科医であり、分析心理学の創始者である。20世紀における人間の心理学に関する最初の作家であり、最も広く読まれている作家の一人である。フロイト、アドラーと共に、今日の心理学の大きな流れを作った人物であり、ユングの業績は、精神医学、人類学、考古学、文学、哲学、宗教学などの分野に広く影響を与えた。

幼少期

カール・グスタフ・ユング (Carl Gustav Jung)は、1875年7月26日、スイスのトゥルガウ州ケスウィルで、ポール・アキレス・ユング (Paul Achilles Jung) (1842-1896) とエミリー・プレスヴェルク (Emilie Preiswerk) (1848-1923) の二男であったが長男として育った。1873年に生まれた彼らの最初の子(長男)はポールという名の少年だったが数日しか生き延びられなかったのである。

ユングが生後6ヶ月のとき、父親はラウフェンのより裕福な教区に赴任したが、両親の間には緊張感が漂っていた。エミリー・ユング(カール・ユングの母親)は風変りで憂鬱になりがちな性格で、寝室で過ごすことが多く、夜になると霊が訪ねてくると言っていた。昼間は普通だったが、夜になると母は奇妙でミステリアスな雰囲気になったとユングは回想している。ある夜、ユングは母の部屋から、ぼんやりと光った首無しの人影が現れ、宙に浮いているのを見たという。ユングは父親との関係は良好であった。

ユングの母親は、原因不明の体の不調のため、ラウフェンを離れ、バーゼル近郊で数ヶ月の入院生活を送ることになった。ユングは父によりスイス・バーゼルのエミリー・ユングの妹(未婚)に預けられたが、後に父の家に連れ戻された。母、エミリー・ユングの度重なる不在と鬱状態によりユングは深く悩み、ユングは母を「本質的に信頼できない」と感じるようになった。一方で、父親は彼にとって信頼できる存在であると同時に無力な存在でもあった。ユングは回顧録の中で、このような親の影響が、「私が最初に抱えたハンディキャップ」だと述べた。その後、これら初期の印象を見直すこととなった。ユング曰く「私は男友達を信じては失望させられており、女性不信に陥っていたものの失望することはなかったのだ」。ラウフェンでの3年間の生活の後、ポール・ユングは転勤を願い出た。1879年、彼はバーゼルの隣にあるクラインフニンゲンに呼ばれ、家族は教会の牧師館に住んだ。この転居により、エミリー・ユング(母)は家族との交流を深め、憂鬱な気分も和らいだようである。ユングが9歳のとき、妹のヨハンナ・ゲルトルート(1884-1935)が生まれた。家族の間では「トゥルーディ(Trudi)」と呼ばれていたが、後に兄の秘書となる。

ユングが育ったスイス・バーゼル市クラインフニンゲンの牧師館_wikismart_ウィキスマート

ユングが育ったスイス・バーゼル市クラインフニンゲンの牧師館

幼少期の思い出

ユングは孤独で内向的な子供でした。幼い頃から、母親と同じように、自分には2つの人格があると信じていた。一つは現代のスイス人で、もう一つは18世紀にふさわしい人格である。彼が言うところの「人格1」は、当時の時代に生きる典型的な小学生であった。「人格2」は、過去からきた威厳と権威のある有力者であった。カール・ユングは両親と仲が良く、スピリチュアルな世界に興味を持つようになったのも家庭内からであった。子供の頃、母親はよく子供向けの絵本で異国の宗教の話を読んで聞かせてくれたという。ユングは両親と仲がよく、父親は牧師だったが、信仰に対してアカデミックなアプローチをとる父親に、むしろ失望していた。

幼い頃の数々の思い出が、ユングの心に生涯の印象を刻み込んだ。少年時代、筆箱の木製定規の先に小さなマネキンを彫り、ケースに入れていた。そして、上下を塗りつぶした石を入れ、屋根裏にケースを隠した。彼はしばしば自分の秘密の言葉でメッセージを書いている小さな紙を持ち、定期的にマネキンのところに戻ってきていった。彼は後に、この儀式的行為が心の平和と安心感をもたらしたと振り返っている。数年後、彼は自身の個人的経験と、アルレスハイム近郊のソウルストーンの採集やオーストラリアのツルンガといった先住民の文化におけるトーテムにまつわる慣習との間に類似性を見出した。彼は、自分の直感的な儀式行為は、無意識のうちに行われた儀式であると結論づけたが、それは少年だった自分が何も知らなかった遠い場所の儀式と驚くほど似ていたのである。シンボル(記号)、アーキタイプ(原型)、集合的無意識に関する彼の観察は、これらの初期の体験とその後の研究により部分的に触発されたものである。

バーゼルの人文科学学校(ユマニスティック・ジムナジウム)の1年生が終わる直前の12歳のとき、ユングは他の少年に強く押し倒され、一瞬、意識を失ってしまった事件があった。(ユングは後に、この出来事を間接的には自分のせいであると認識することになった。) そのとき「これでもう学校に行かなくていい」と思ったのである。それ以来、学校に行くときも、宿題を始めるときも、気絶するようになった。それから半年間、ユングは家にいたが、父親が来客に、ユングの将来の自活能力について慌てて話しているのを小耳にはさんでしまった。ユングにはてんかんの疑いがあると言う。家庭の貧しさの現実に直面させられた彼は、学問で優秀である必要性を痛感した。父の書斎に入り、ラテン語の文法をひたすら勉強した。その後、3回ほど失神したが、ついにその衝動を克服し、二度と失神することはなかった。この出来事についてユングは後に「神経症とは何かを学んだ時だった」と回想している。

大学での研究と初期のキャリア

ユングは幼少の頃、説教師や牧師になることを志していた。彼の家庭には強い道徳観念があり、家族の中にも聖職者(牧師)が何人もいた。ユングは大学で考古学を学びたいと考えていましたが、家が貧しく、考古学を教えていないバーゼル大学以上の大学へ進学させる余裕がなかった。10代で哲学を学んだユングは、宗教的伝統主義の道を断念し、代わりに精神医学と医学の道に進むことを決意する。それは生物学的なものと精神的なものが組み合わさっており、まさに彼が求めていたものであった。

1895年、ユングはバーゼル大学で医学を学び始めた。それからわずか1年後の1896年、父ポールが亡くなり、一家はほとんど貧窮状態に陥った。一家は親戚に助けられ、ユングが学業を続けることができた。学生時代には、父方の祖父がゲーテとドイツ人の曾祖母ソフィー・ジーグラーとの間の私生児であるという家族の伝説を披露し、同世代の人々を楽しませていた。後年、彼はこの物語から手を引き、ソフィーはゲーテの姪の友人であったとだけ語った。

1900年、ユングはチューリッヒに移り住み、ブルクホルツリ精神病院でオイゲン・ブルーラーの下で働き始めた。ブリューラーはすでにオーストリアの神経学者ジークムント・フロイトと交流があった。1903年に発表されたユングの学位論文のタイトルは『いわゆるオカルト現象の心理学と病理学について(On the Psychology and Pathology of So-Called Occult Phenomena)』であった。

1905年、ユングは病院の常任上級医に任命され、チューリッヒ大学医学部の講師(Privatdozent)にも就任した。1906年、彼は『診断連合研究』を出版し、フロイトはそのコピーを手にする。1909年、ユングは精神病院を退職し、キュウシュナクトの自宅で個人診療を開始する。

やがて、年長のフロイトとユングの間には親密な友情と職業上の強い結びつきが生まれ、かなりの量の書簡が残されるようになった。彼らは6年間にわたり共同作業を行った。しかし、1912年、ユングは『無意識の心理学(Psychology of the Unconscious)』を発表し、両者の理論的な乖離を明らかにした。その結果、二人の個人的、職業的な関係は壊れたが、どちらも相手は自分が間違っている可能性を認めることができなかったと述べている。1913年の破局後、ユングは、第一次世界大戦の勃発により、困難で重要な心理的変化を経験することになる。ヘンリ・エレンバーガーはユングの強烈な体験を「創造的な病」と呼び、フロイトが神経衰弱やヒステリーと呼んでいた彼自身の体験を比べ好意的に評価した。

結婚

1903年、ユングは7歳年下のエマ・ラウシェンバッハ(Emma Rauschenbach、スイス東部の裕福な実業家ヨハネス・ラウシェンバッハ-シェンク夫妻の長女)と結婚した。ラウシェンバッハは、IWCシャフハウゼン(高級時計の製造で有名なインターナショナル・ウォッチ・カンパニー)などのオーナーであった。 1905年にラウシェンバッハが亡くなると、彼の2人の娘とその夫がIWCのオーナーになった。 筆頭株主となったのはユングの義弟であるエルンスト・ホムバーガーであったが、ユング夫妻はその後何十年間にわたり、一族の経済的安定を保証する成功した事業の株主であった。エマ・ユング(前エマ・ラウシェンバッハ)は学歴が浅かったものの、夫の研究に多大な関心とかなりの能力を示し、ブルクヘルツリで助手として研究に没頭した。やがて彼女自身も著名な精神分析医となった。二人の間には5人の子供がいた。アガーテ(アガテ)、グレット、フランツ、マリアンヌ、ヘレーネ(ヘレネ)である。この結婚は、1955年にエマが亡くなるまで続いた。

婚姻中、ユングは不倫関係にあった。最も広く議論された不倫疑惑は ザビーナ・シュピールライン(Sabina Spielrein)やトニー・ヴォルフ(Toni Wolff)とのものである。ユングと ザビーナ・シュピールライン  の関係 に性的関係が含まれていたことはほぼ当然のことと考えられていたが 、ヘンリー・ツヴィ・ローテーン(Henry Zvi Rothane)などから、この説に異論が呈されている。

戦時中の軍務

第一次世界大戦中、ユングは軍医として徴兵されてすぐ、イギリス人将兵の収容所の指揮官となった。スイスは中立国であったため、捕虜となるのを避けるため国境を越えて侵入してくるどちらの国側の兵士も区別なく収容する義務があった。 ユングは、スイスに取り残された兵士たちの待遇改善に努め、大学の講義に参加するよう奨めた。

戦後

戦後、ユングは書籍の売り上げや謝礼、勤務先の医療機関に長く務めることで権利を取得した研究休暇(サバティカル)などで得た資金を元手に、世界を旅するようになる。1920年代半ばには北アフリカ、ニューメキシコ、ケニアなどを訪問、1938年にはハーバード大学で「心理学と宗教」というタイトルで講演を開催した。ユングは、信条の上での「経験論」、つまり、体験を重んじる立場をとっており、人は体験していないことを理解することはできないと主張していた。世界を訪れたのは、 実際に、身をもって異文化の人々との触れ合うことで、異文化を体験的に理解したいという、彼の願いの現われでもあった。ユングは、体験を重んじる態度によって、自らの視野を大きく拡大していった。ただし、彼の体験の概念はきわめて広く、その中には、夢や空想、神秘体験なども含まれている。ユングがインドを訪れたのはこの頃である。滞在中、彼はアーサー王に関連する夢を見た。このとき、彼は自分の課題は西洋の精神性により注意を払うことだと確信し、その後の著作では西洋の神秘的伝統、キリスト密教(esoteric Christianity)、そして特に錬金術に深い関心を寄せていることがわかる。晩年の作品では、空飛ぶ円盤への関心が、当時の世界情勢の脅威による心理投影*(Psychic Projection)であることが明らかにされている。ユングは1961年6月6日に生涯を閉じるまで執筆を続けた。

*心理投影説(The Psychic Projection Theory)とはカール・グスタフ・ユングが最初に唱えた説。 ユングは、 自分の心理学理論とUFOとを関連づけようとした。

ユングのUFO観

ユングのUFO観
(引用:『図解 UFO』著者: 桜井慎太郎)

*参照:集合的無意識、元型

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