カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日-1961年6月6日)は、スイス生まれの精神科医であり、分析心理学の創始者である。20世紀における人間の心理学に関する最初の作家であり、最も広く読まれている作家の一人である。フロイト、アドラーと共に、今日の心理学の大きな流れを作った人物であり、ユングの業績は、精神医学、人類学、考古学、文学、哲学、宗教学などの分野に広く影響を与えた。
ユングの名言
- 反対のものは合理的に結合してはならない…実際のところ、反対のものは…非合理的にしか結合できないのである。
- 私は常に全体から部分へと進めていく。
- ヒトラーは薬師であり、精神的な器の一形態であり、半神、さらには神話と言った方がよいだろう。
- ショーペンハウアーは”人間の精神”と”盲目の、創造する意志”という考えを対比させた。… 私はショーペンハウアーから、意識が明確な型にはまるという考えを得たのだ。
- フロイトは偉大な人物だが… 常に自分自身から逃げている。 なぜいつもセックスの話ばかりしなければならないのか、自問することもない。
- フランス人は世界を支配しようとは思っていない。ヨーロッパを支配するという考えは、真のフランス人ではなく(コルシカ人である)ナポレオンがもたらした気取ったものである。
- カトリック教徒は… ”精神”分析を必要としない。なぜなら、彼らの中の無意識は… 儀式により絶え間なく排除されているからだ。カトリックの無意識は空っぽなのだ。
- 女性はズボンを履いてはいけない、みっともない。
- 子供の頃、私は強い感受性があり傷つきやすかった。
- 自分の個性を知るには、相手と密接に責任感を持って付き合わなければならない。
- 知性が大きな位置を占めすぎて、闇を作ってしまった。
- 「「統合(をとること)」が物事を生かすのであり、「知的」分析は殺すのである。
- 科学的な理解が深まるにつれ、我々の世界は非人間的になってきた。人間は宇宙の中で孤立していると感じている。なぜなら、もはや自然との関わりを失い、感情的な自然現象との「無意識的同一性」を失ってしまったからである。
- フロイトが何かを考えたら、それで決まりなのだとすぐにわかった。ところが、私はずっと疑っていたのだ。
- 頭脳明晰な人は、思考力が英雄となり、キリストの代わりにカントが理想となる。
- “カント”を研究していたんです。私はそれにどっぷり浸かっていました。 カントとフロイトはかけ離れていたのです。
- 禅の逸話は… グロテスクとの境界だけでなく、そのど真ん中にある。
- フロイトは哲学的な教育を受けていない。
- ゲーテの中で価値を認めているものを私は「楽しむことができない」。あまりにも大きく、あまりにも刺激的で、あまりにも奥深いのです。
- 私を神秘主義者と呼ぶ人は皆、ただの馬鹿です。
- 物事の精神的な本質を正しく理解するためには、私の話す言葉は、幾つもの意味にとれたり、曖昧でなければなりません。私は意識的、意図的に曖昧な表現に努めています。なぜなら、それは明白さよりも優れており、存在の本質に対応しているからです。
- 私の文体は決して単純なものではなく、私の文章にはいくぶん微妙なニュアンスが含まれており、それを聞くためには特別に訓練された耳が必要です。十分な価値の把握ができていない人々は、特定の点を誤解してしまっているのだ。
- 類型論的な問題(心理学的タイプ、心理学的類型を作る実践)は、どんな角度からでもアプローチすることが可能だ。
- ハイデガーは無意識的で主観的な偏見に満ちている。
- ヘーゲルは僭越と虚栄に満ちており破滅するのがふさわしい。
- ハイデガーの思想の本質は、言葉では言い表せないほどくだらない陳腐なものだった。
- 哲学はその批判的な分析哲学にもかかわらず、まだサイコパス(精神病質者)を根絶することができていない。…キルケゴールは… その一人である。
- 雷はもはや怒れる神の声ではない…川に精霊は宿らない…蛇は知恵を持たず、山洞に大妖怪が棲むことはない。今や、石や植物や動物から人間に語りかけることもなく、相手が聞こえると思い話しかけることもない。人間が自然と触れ合うことがなくなり、象徴的なつながりがもたらした深い感情的エネルギーも一緒になくなってしまった。
- 煩悩に執着すればするほど、盲人のように世界をつまづいてしまい、あなたは自分自身をまだ見出せない普通の人であり続けるのだ。
- “古今東西の深層心理”は、世代と共に変化する”時代の精神”よりも大きな力を持っている。
- 新たな道は発見されることを求める……我々の中の未発見の鉱脈は、心の生きた部分である。
- 私は自分の内なるイメージを追求した。… 他の全ては、そこから導き出されるものである。… 後の詳細はほとんど問題ではなく、後の事は全て、外面的な分類と人生への統合に過ぎない
- 私には、合理的なものと非合理的なものの両方の受け入れが必須なのだ。
- 人生の多様な可能性を包含し表現できる知的な公式は、これまでもなかったし、これからも決して考案されることはないだろう。
- 良い結婚の前提は……不貞の許可である。
- 心理学的な問題で絶対的に正しい人はいない。
- “伝記は人の下半身を見せるものだ。ゲーテには弱点があったし、カルヴァンはしばしば残酷だった。この種の考察から、その人の真の偉大さが見えてくる。このようなものの見方は、偽りの英雄崇拝よりも優れているのだ!
- 私の教育で優勢だった哲学的影響は、プラトン、カント、ショーペンハウアー…それからニーチェである。… アリストテレスの視点には特に魅力を感じなかったし、ヘーゲルに至っては哲学者ですらなく、失敗した心理学者である。
- 私はヘーゲルをまともに勉強したことがない。… しかし、ヘーゲル哲学の信条と、集合的無意識に関する私の発見との間には、もちろん驚くべき一致がある。
- 死に囲まれているときほど生が美しいことはない。~カール・ユング『セミナー』1925年、85ページ
- 私は生と死を受け入れようとしている。~カール・ユング、書簡集第二巻、546-547ページ
- 「生または死」のどちらか一方を受け入れようとしない自分に気づいたら、自分の動機について自問自答してみることだ。. . . ~カール・ユング、書簡集II、546-547ページ
- 生と死という究極の状況においては、完全な理解と洞察が最重要である。というのも、行くか留まるか、行かせるか留まるか、という決断をするのに不可欠であるからだ。~カール・ユング、書簡集第二巻、546-547ページ
- 人は果実を収穫できるようになるために死を必要とする。死がなければ、人生は意味のないものになってしまう。長く続くものは再び立ち上がり、自らの意味を否定してしまうからだ。存在するために、そして自分の存在を楽しむために、死が必要であり、制限によって自分の存在を全うすることができる。~カール・ユング著『赤い本』275ページ。
- もし私が死を受け入れるなら、死が生命力を増幅させ、私の木は青々とする。もし私が世界を包んでいる死に飛び込めば、私の芽が開く。私たちの生命はどれほど死を必要としているのだろう。~カール・ユング『レッドブック』275ページ。
- はっきり見るためには、死の冷たさが必要なのだ。命は生きて死にたく、始まって終わりたいのだ。~カール・ユング著『レッドブック』275ページ。
- 些細なことでも喜びを感じるのは、死を受け入れたときだけである。~カール・ユング著『レッドブック』275ページ
- 人や物に縛られていては、人生を目的地まで進めることも、自分自身の深い本質に辿り着くこともできない。死を恐れることしかできないので、死が自分の中で新しい生命として始まることもない。~カール・ユング著『レッドブック』356ページ。
- 何が言いたいかというと、全世界がキリスト教化したのは偶然とは言い難い、ということです。また、キリストを心に抱き、その苦しみ、死、復活とともに成長することが、西洋人の課題であったと思う。~カール・ユングから『レッドワン』リベル・ノヴス、260ページ
- 死は、外から見ている限り、最も辛いものである。しかし、いったん中に入ると、その完全さと平和と充足感を味わい、帰りたくなくなる。~カール・ユング『手紙』第1巻、355-357ページ。
- 心理学は死の準備である。私たちには、自分が入ってきたときよりも高いレベルで人生を去りたいという衝動がある。~カール・ユング;C.G.ユングとの対話、心理療法、16ページ。
- 自我(エゴ)は幻想であり、死とともに終わるが、カルマは残り、次の存在で別の自我(エゴ)が与えられる。~カール・ユング、『現代心理学』第3巻、17ページ。
- 死を単なる無意味な停止ではなく、人生の意味の成就、真の意味でのゴールと見なす方が、人類の集合的な精神と一致しているように思われる。この点に関して合理主義的な意見を大事にする人は、心理的に自分を孤立させ、自分自身の基本的性質に反対する立場にいるのだ。~カール・ユング、CWs, 8, 1807.
- 私は医者として、人が死の中においても努力できる目標を見出すことは健全であり、そこから遠ざかることは人生の後半の目的を奪ってしまう不健全で異常なことであると確信している。~カール・ユング、CW8、399-403ページ
- ニーチェは「神は死んだ」と表現したが、キリストの死はキリスト教の謎の一つであり、彼がこれを言ったとき、自分がまだ教義の中に立っていることに気づいていなかったのである。~カール・ユング、ETH講演集、197ページ。
- 死は2つの世界を結びつけるものであり、終わりではない。私たちはその橋なのです。
- 死後も魂が存在することを証明する有効な方法はないが、それでも考えさせられる経験がある。私はそれをヒントとして受け止め、それらに洞察の意味を見出そうとは思わない。~カール・ユング、MDR、312ページ
- 死が間近に迫り、死後の世界が見えるというのは実に不思議な体験である。現在の感覚は今日を超えて広がり、過ぎ去った数世紀を振り返り、まだ生まれていない未来へ向かって進むのだ。~カール・ユング『手紙』第2巻、10ページ。
- 自己を省みる人間の意識がなければ、善悪は単に物事が起こるだけであり、むしろ善悪は存在せず、ただ一連の中立的な事象(出来事)の連続であり、仏教で言うところの 「涅槃寂静」、つまり苦しみ、老衰、病気、そして死へと繋がる連続した因果の連鎖があるだけなのだ。~カール・ユング、書簡集II、310-311ページ
- 母の死は私に埋めようのない隙間を残した。~カール・ユング、書簡集II、316-317ページ。
- 障害物を乗り越えようとする人が便利なハシゴをつかむのと同様、比較的死に近い人だけが、私たちの心理における本質をつかむのに十分に真剣であるか、成熟しているかのように見える。~カール・ユング、書簡集II、536-537ページ
- 私たちは、ソクラテスのダイモニオンを、悪いとは言わないまでも、やはり個人の特殊なものとして捉えている。そのような人々は、ブッダが言うように、「死後、間違った道、悪い道、深みへ、地獄の世界へと至る」のである。~カール・ユング、書簡集II、531-533ページ
- 私たちは自分の立場の否定を努力して学び、人生とは二つの極の間で行われるプロセスであり、死に囲まれて初めて完成するという事実を理解しなければならないのです。~カール・ユング、1925年セミナー、86ページ
- もし私たちが自分たちの中の先祖の命に気づいたら、崩壊してしまうかもしれない。祖先が私たちに憑依し、死に追いやってくるかもしれない。~カール・ユング、1925年セミナー、139ページ
- 死はあらゆるものの中でより永続的であり、決して取り去ることができないものである。~カール・ユング『リベル・ノヴス』323ページ
- 古いものの死の機が熟さなければ、新しいものは何も現れないだろう。そして、古いものが新しいものの道を不当に閉ざしていなければ、それを根絶やしにすることはできなかったし、そうする必要もないのだ。~カール・ユング、CW 6, Para 446.
- 人は果実を収穫するために死を必要とする。~カール・ユング『リベール・ノヴス』275ページ。
- 死によって魂が消えさろうと、それは失われてはいない。あこの世でいう死の状態と反対の”生きた対極”をあの世で形作っているからである。~カール・ユング、CW 16, パラ 493
- 私たちが魂の奥深くに入り込み、その神秘的な生命を理解しようとするとき、死が無意味な終わりではなく、単に無に消えることではないことを知るでしょう。死は、生命の樹の上にある熟した果実であり、達成なのです。そして、突然の消滅ではなく、半生の間、無意識のうちに生き続けてきたゴールなのです。~カール・ユング、CW18、パラ1705-7頁
- 一人の人間に合った靴は他の人間にはきつくて合わない。すべての事例に適合するような人生の処方箋はないのだ
- 人生の濁流に身を投じているかぎり、障害がないという人間はいない
- 新しい創造というのは知性によって為されるのではなく、内なる必要から本能が為す。創造的な精神は愛することに取り組むものだ
- 二つの人格の出会いは化学物質の接触のようなものだ。なんらかの反応があれば両者が変形することになる
- 私たちが認識できる限り、人間存在の唯一の目的は単に生きることの暗闇に火をつけることである
- 受け入れることなしに、何も変えることはできない。非難は(精神を)解放するどころか、抑圧するだけなのだ
- 子供たちは、大人の話ではなく、大人のあり方によって教えられる。
- 子供たちのことで、何かを直してやろうとするときにはいつでも、それはむしろ我々のほうで改めるべきことではないかと、まず注意深く考えてみるべきである
- 他人に苛つくことのすべては、自分自身の理解に役立つ。
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