フロイト とは | 意味・まとめ by wikiSmart ウィキスマート

心理学
心理学

ジークムント・フロイト(独: Sigmund Freud、1856年5月6日 – 1939年9月23日)神経学者で、患者と精神分析医の対話によって精神病理学を治療する臨床方法である精神分析の創始者。フロイトの考え方は精神医学にとどまらず、心理学や社会学など広い分野に大きな影響を与えている。

フロイトはガリシア系ユダヤ人の両親のもと、オーストリア帝国のモラヴィア地方の町フライベルクに生まれた。1881年にウィーン大学で医学博士の資格を取得した。1885年にハビリテーションを修了すると、神経病理学の教官に任命され、1902年には客員教授となった。フロイトはウィーンに住み、1886年に臨床を開始し働いていた。1938年、フロイトはナチスから逃れるためオーストリアを離れた。1939年に英国に亡命し、死去した。

グリンツィングのコベンツルにあるジークムント・フロイトの石碑

精神分析を創設するにあたって、フロイトは、自由連想の使用や転移の発見などの治療技術を開発し、分析過程における中心的役割を確立した。フロイトはセクシュアリティを幼児性を含むものと再定義し、エディプス・コンプレックスを精神分析理論の中心概念として定式化した。夢を願望実現として分析することで、彼は症状の形成と抑圧の基礎となるメカニズムを臨床的に分析するためのモデルを着想した。これに基づき、フロイトは無意識の理論を精緻化し、エス(イドとも呼ばれる:本能的、衝動的欲求)、自我(エゴとも呼ばれる:エスと超自我の間でバランスをとりエスをコントロールする)、超自我(スーパーエゴとも呼ばれる:良心、罪悪感、恥意識)からなる精神構造のモデルを発展させていった。フロイトは、精神的な過程と構造が関係しエロス的な愛着を生み出す性的な心的エネルギー(精神分析で心の中に存在すると仮定されたエネルギー)であるリビドー(生きるための心の働きをするエネルギーのこと。ラテン語で「強い欲望」を意味する)と、強迫的な反復、憎悪、攻撃性、神経症的な罪悪感の源である死の欲動の存在を仮定した。後期の著作では、フロイトは宗教と文化について幅広い解釈と批判を展開した

精神分析は、診断や臨床の場としては全体的に衰退しつつあるものの、心理学、精神医学、心理療法、そして人文科学の分野では依然として影響力を持ち続けている。そのため、その治療効果、科学的地位、フェミニストの活動を促進するのか又は有害なのかに関し、広範で激しい議論を巻き起こし続けている。それにもかかわらず、フロイトの研究は、現代の西洋思想と大衆文化に浸透している。1940年にW・H・オーデンがフロイトに捧げた詩の言葉を借りれば、フロイトは「私たちが異なる人生を送る上で必要な統一的な世論(”a whole climate of opinion /under whom we conduct our different lives.” )」を作り出したのである。

フロイトの生涯

*フロイトと深い関係にあった人物についても一部記載↓

西暦 出来事
1856 0 5月6日、フライベルクで商人ヤーコプ・フロイトの息子として誕生
1859 3 ウィーンへ転居
1865 9 名門高校であるレオポルドシュテッター・コミュナル・レアルギムナジウムに入学
1873 17 ウィーン大学の医学部へ入学:脊髄神経細胞、脳性麻痺や失語症を研究
1876 20 ブ リ ュ ッ ケ 教 授 の 生 理 学 研 究 室 に 入 る (〜1882)
ブロイアー、フライシェル・マ ルホフらと出会う
1877 21 「ウナギの生殖腺の形態と構造について」 「ヤツメウナギの脊髄神経節および脊髄 について」
1880 24 ブロイアーがアンナ・Oの治療を始める
1881 25 ウィーン大学卒業(25歳)
1882 26 後の妻マルタ・ベルナイスと出逢い婚約
ウィーン総合 病院に勤務
1884 28 コカイン研究に没頭、友人フライシェル・マルホフに勧める
コカイン療法の発見者になるが、コカインの中毒性が報告され、不当治療の唱導者として批判される
1885 29 ウィーン大学医学部神経病理学の私講師に任命される
パリに留学し、神経学者ジャン・マルタン・シャルコーから催眠によるヒステリー治療を学ぶ
1886 30 ウィーンへ戻り、ヒステリー治療の開業医となる
マルタ・ベルナイスと結婚(30歳)
「男性のヒステリ ーについて」
ヒステリー治療から自由連想法を編み出し、後に精神分析と名づける
1887 31 長女マチルデ誕生
フリースとの交際が始まる
催眠暗示を採用
1889 33 長男マルティン誕生
エミー・フォン・N婦人の治療(カタルシス法の追試)
ナンシーのリエボーやベルネイムを訪問
1891 35 次男オリヴァー誕生
「失語症の理解のために」
1892 36 三男エルンスト誕生
1893 37 次女ゾフィー誕生
シャルコー死去
「ヒステリー現象の心的機制について」
1894 38 ブロイアーとの共同研究が終わる
「防衛による神経症と精神異常」
1895 39 三女アンナ誕生
「イルマの注射」の夢を見る
「ヒステリー研究」
「科学的心理学草稿」
1896 40 「精神分析」ということばを用いる
ブロイアーと決裂
フリースと接近
父ヤーコプが82歳で他界
父の死により不安症が悪化し、自身の自己分析・夢分析をはじめる
マルタの妹ミンナが家族に加わる
「ヒステリーの病因について」
1897 41 フリースとの関係が緊密
1898 42 幼児性欲の言及
「神経症における性」
1900 44 「夢判断」
1901 45 「日常生活の精神病 理学」
1902 46 フリースと決裂
シュテーケル、アドラ ーらと「心理学水曜会」(精神分析学会の前身)をつくる
1904 48 オイゲン・ブロイアー(47歳)と文通を始める
「ドラの分析」
1905 49 「機知と無意識との関係」
「性欲論三篇」
1906 50 ユング(31 歳)が「診断的連想研究」をフロイトに送る
オットー・ランクと会う
1907 51 カール・グスタフ・ユングに出会う
ビンスワンガー(後に現存在分析派を創始)が訪問
カール・アブラハムと交際
1908 52 「ウィーン精神分析協会」を設立し、ザルツブルグで第1回国際精神分析会議
ジョーンズ, フェレンツィらと会う
1909 53 スタンリー・ホールに招かれて、ユング、フィレンツィらとともにアメリカのクラーク大学で講演
クラーク大学・大学長から博士号を授与される
「精神分析について」
「五歳の男児の恐怖症の分析」
1910 54 「国際精神分析学会」を創立
ユングを初代会長に就任
1911 55 アドラー(個人心理学を創始)がフロイトと別れて「自由精神分析学協会」を結成
1913 57 意見の相違からユングと決裂
「トーテムとタブー」
1914 58 「精神分析運動史」
「ナルシシズム入門」
1915 59 「精神分析学入門」の講義をウィーン大学 で始める
「欲動と運命」
「無意識」
1916 60 「精神分析入門」
1918 62 白板症を発症し手術を繰り返す
1920 64 「快楽原則を超えて」
1921 65 「集団心理学と自我の分析」
1922 66 口蓋の癌を手術
以後 33 回の手術
1923 67 『自我とエス』を発表
1925 69 「自己を語る」
1926 70 「制止・症状・不安」
「非医師による精神分 析の問題」
1930 74 母アマーリアが95歳で他界
ゲーテ賞受賞
「文明への不満」
1931 75 ウィーン医師協会の名誉会員になる
1932 76 古沢平作がフロイトのもとへ留学
「続精神分析入門」(心の構造モデル)
1936 80 アインシュタインと往復書簡
1937 81 マリー・ボナパルトがフロイトのフリース宛書簡集を入手
「終わりある分析と終わりなき分析」
1938 82 ナチス・ドイツのウィーン侵攻により、ロンドンに亡命
1939 83 癌を患い、9月23日ロンドンで死去
「モーゼと一神 教」
「精神分析学概説」(絶筆)

「フロイトの生涯」の詳細はこちら

フロイトのアイデア

初期の業績

フロイトは1873年にウィーン大学で医学の勉強を始めた。神経生理学的研究、特にウナギの性解剖学と魚類の神経系の生理学の研究に興味を持った。フロイトは最終的には小さすぎて見つからなかったウナギの精巣を発見するという功績を上げた。またフランツ・ブレンターノもとで哲学を学ぶことに興味を持ったため、学業を終えるまでに約9年を要した。彼は経済的な理由により神経学の開業医となり、1881年、25歳のときに医学博士号を取得した。1880年代の彼の主要な関心事の一つは、脳の解剖学、特に延髄であった。彼は1891年に出版した単行本『失語症の診断(Zur Auffassung der Aphasien)』で失語症に関する重要な議論に参加し、その中で失認*(アグノシア、agnosia)という用語を作り、神経学的障害の説明についてロケーション主義的な見方をしないように助言した。フロイトは、同時代のオイゲン・ブラウラーと同様、脳の構造よりも脳の機能を重視していた。

*失認:
ある一つの感覚を介して対象物を認知することができない障害のことである。視覚、聴覚、触覚などの他、病態失認や半側空間無視なども失認に含まれる。高次脳機能障害のひとつであり、認知障害、失認症、認知不能症とも。

フロイトは、当時「脳性麻痺」として知られていたテーマの研究に早くから取り組んでおり、いくつかの医学論文を発表した。そして、当時の他の研究者がこの病気に気づき、研究し始めるよりもずっと前から、病気が存在していたことを明らかにしたのである。フロイトは、ウィリアム・リトルの「出産時の酸素不足が脳性麻痺の原因である」という説は誤りであると指摘するのみならず、出産時の合併症は症状のひとつに過ぎないという説を唱えた。

精神分析

フロイトは、自分の研究により治療技術に確かな科学的根拠の保証を期待していたのである。フロイトの治療(精神分析)の目的は、抑圧された思考や感情を意識化することで、患者を反復的な歪んだ感情の苦しみから解放することであった。

古典的には、夢の話をさせたり、自由連想させたりすることで、無意識のうちに考えていたことを意識化させるもので、その際、患者は自分の考えを遠慮なく述べ、集中しようとはしない。精神分析のもう一つの重要な要素は転移であり、患者が自分の人生における以前の人物に由来する感情や観念を分析者に置き換えていく過程である。転移は当初、抑圧された記憶の回復を妨げ、患者の客観性を乱す残念な現象として考えられていたが、1912年までにフロイトはこれを治療過程の本質的な部分とみなすようになった。

フロイトの初期の精神分析*への取り組みは、ヨーゼフ・ブロイヤーに端を発している。フロイトはブロイヤーがアンナ・O(仮名)のケースの治療によって精神分析法の発見への道を開いたと信じていた。ブロイアーは協力者でもあったフロイトとともに本件を他の症例とあわせ、1895年に『ヒステリー研究』としてまとめ出版した。

*精神分析:
精神分析で治療できるのは、「神経症」や「精神病」といった心の病のうち「神経症」とされている。神経症はヒステリー、強迫神経症、恐怖症といった心の問題が身体や行動の異常としてあらわれるものであり、精神病は統合失調症や躁うつ病といった遺伝や脳の器質に関わっているもの。精神分析では、コミュニケーションを介して、精神病の治療を目指した。精神病は妄想や幻覚といった症状でコミュニケーションが困難なことが多く、精神分析では治療は不可能とフロイトは述べている。
後述するブロイヤーのアンナ・Oのケースの治療では、催眠状態となったアンアが過去を思い出して語るたびにヒステリーの症状がなくなった。ブロイアーはこの心理療法を「催眠浄化法(hypno-catharsis)」と呼び、アンナ自身はこれを「談話療法(talking cure)」あるいはユーモアを込めて「(心の)煙突掃除」と呼んでいた。フロイトはこのことから、無意識下にある抑圧された過去を想起し話すことが神経症の治療法だと確信し、これは精神分析の基礎的な考えとなった。

フロイトの理論にはたえず変化と発展があって、これを整然とまとめるのは至難である。また理論そのものを構造論(心的装置論)、欲動論、無意識論、発達論、防衛機制論、神経症論、夢解釈論などに大別することもできる。これらは相互に関連している。

フロイトがこれらの新しい理論を発展させたのは、心臓の不調、不穏な夢、うつ病の期間、1896年の父の死による「神経衰弱」を経験し、自分の夢や子供時代の記憶の「自己分析」を促していた時期であった。父親への敵意と母親の愛情へのライバル的な嫉妬の感情を探求した結果、彼は神経症の起源についての理論を根本的に見直すことにした。

フロイトは、初期の臨床研究に基づき、幼児期の性的虐待の無意識の記憶が精神神経症(ヒステリーや強迫神経症)の必要条件であると仮定しており、これは現在、フロイトの誘惑理論として知られているものである。フロイトは自己分析の結果、すべての神経症は幼児期の性的虐待の影響に遡ることができるという理論を放棄し、幼児期の性的な場面は依然として原因となる機能を持っているが、それが現実か想像かは問題ではなく、いずれの場合も抑圧された記憶として作用するときのみ病的になると主張した(The Freud’s seduction theory)。

このように、すべての神経症の発生を一般的に説明する幼児期の性的トラウマ説から、自律的な小児性欲を前提とする説への移行は、その後のフロイトのエディプス・コンプレックス説を定式化する基礎となった。

フロイトは1895年に出版された『ヒステリーの研究』(ヨーゼフ・ブロイヤーとの共著)の中で、自分の臨床方法の変遷を説明し、多くの事例で示されたヒステリーの心因的な起源に関する理論を提示した。1899年には『夢判断、英語:The Interpretation of Dreams (ドイツ語: Die Traumdeutung)』を出版した。この著作の中で、フロイトは既存の理論を批判的に検討した上で、彼自身と患者の夢について、「夢の作業(dream work)」という抑圧や検閲の対象となった願望実現の観点から詳細に解釈している。そして、この説明の基礎となる精神構造(無意識、前意識、意識)の理論モデルを提示しており、心の構造は意識、前意識、無意識の3層構造で、無意識は個人が持つ1領域であるとされた。1901年には要約版の『夢について(On Dreams)』が出版された。より一般的な読者を獲得することになる著作では『日常生活の精神病理学』(1901年)、『ジョークと無意識との関係』(1905年)など、自分の理論を臨床の場以外で応用している。 1905年に出版された『性の理論に関する3つの論考(セクシュアリティの理論に関する3つのエッセイ)』で、フロイトは小児性欲についての理論を詳しく説明し、その「多形倒錯」の形態や、性的アイデンティティの形成においてそれが生み出す「欲動(衝動)」の機能について述べている。同じ年、彼は『ヒステリー症例の分析の断片(Fragment of an Analysis of a Case of a Hysteria)』を出版したが、これは彼の最も有名で論争の的となる症例研究のひとつとなった。 

誘惑理論

1890年代初頭、フロイトは、ブロイヤーが説明した治療法をベースに、彼が「前額法*」と呼ぶ手法(1892年)と、新たに開発した解釈と再構成の分析技法を加えた「自由連想法*」という治療法(1892年)を用いた。

*前額法:
広げた指で患者の額で圧迫する瞬間に心を思い浮かぶことを何でも話すという手法

*自由連想法:
患者を横に寝かせ、目をつぶった状態で心に思い浮かぶことを何でも話すという手法

この時期に関するフロイトの後述の記述によれば、この方法を用いた結果、1890年代半ばの患者のほとんどが、幼少期の性的な誘惑・虐待を報告していたという。彼はこれらの話を信じ、それを自身の誘惑理論の基礎とした。当時フロイトはこれが神経症の原因であると考えたが、その後、それらを事実ではなく患者の空想であると判明した。彼は当初、これらを幼児期の自慰行為の記憶を「かわす」機能があると説明していた。(しかし、後年になって、それらは性的で破壊的な生得的衝動に由来するエディプス・コンプレックスであると書いている。患者たちの事実と異なる告白を親への性的かつ無意識な願望のあらわれだと結論づけた)

別の出来事では、フロイトが1895年10月にフリースに宛てた手紙の中で、幼児期の性的虐待の無意識の記憶が精神神経症の根源にあると提案したことに焦点を当てている。しかし、それは彼が実際に患者の間でそのような虐待を発見したと報告する前のことである。1896年の前半に、フロイトは、彼の誘惑理論につながる3つの論文を発表し、現在の患者のすべてにおいて、幼児期の性的虐待の深く抑圧された記憶を発見したと述べている。フロイトはこれらの論文の中で、患者はこれらの記憶を意識的には認識しておらず、したがってヒステリー症状や強迫神経症を引き起こすのであれば、無意識の記憶として存在しなければならないと記録している。患者は、フロイトが無意識に抑圧されていると確信した幼児期の性的虐待の「場面」を「再現」するようにかなりのプレッシャー(圧力)をかけられていた。患者は、フロイトの臨床手順を体験したことが実際の性的虐待を示しているとは一般的に納得していなかった。性的な場面を「再現」したと思われた後でさえ、患者が彼の不信を強調して断言したとフロイトは報告している。

フロイトの臨床手順には、前額法と同様に、幼児期の性的虐待の記憶に遡り、症状の分析的推論と象徴的解釈を行うことが含まれていた 。自身の理論を100%確認したという彼の主張は、彼の暗示的技法によって得られた所見の妥当性について同僚たちが以前に表明していた懸念を強化することになった。フロイトはその後、自身の誘惑理論が後の発見と互換性があるかどうかに関し矛盾を示した。『ヒステリーの病因』の補遺の中で彼はこう述べている。「これはすべて真実である[子供の性的虐待]。しかし、この本を書いた時点では、私はまだ現実を過大評価しすぎており、空想(ファンタジー)の過小評価から解放されていなかったことを覚えておかなければならない」。フロイトはその数年後、患者の性的虐待の報告が空想ではなく実際の記憶であるという同僚のフェレンツィの主張を明カリン・アーベル=ラッペは、その研究「『もはや信じない』:フロイトは誘惑理論を放棄したのか」の中で次のように結論付けている。

フロイトは、幼児期の近親相姦の経験の性質とそれが人間の精神に与える影響について調査の道筋を示したが、その後、この方向性をほとんど放棄した。

コカイン

医学研究者であったフロイトは、早くからコカインを使用し、自分や他人を被験者として、どれほどの陶酔感が得られるか研究しており、その結果、鎮痛剤としてだけでなく覚醒剤としても推奨していた。フロイトは、コカインが多くの精神的・肉体的問題を解決すると信じており、1884年に発表した論文「コカについて」では、その美徳を讃えている。1883年から1887年にかけて、彼はコカの抗うつ剤としての使用を含む医学的応用を推奨するいくつかの論文を発表している。また、コカインには麻酔作用があることを知っていながら、そのことに言及しなかったため、惜しくも科学的な優先権を得ることができなかった。(ウィーンのフロイトの同僚であるカール・コラーは、1884年にコカインが繊細な目の手術に使えることを医学会に報告し、その栄誉を受けた)。フロイトは、モルヒネ中毒の治療法としてコカインを推奨することもあり、友人のエルンスト・フォン・フライシュル=マルクスオにコカインを紹介した。フライシュル・マルクスオは、解剖中に怪我をした後に感染症から生じた長年の耐え難い神経痛を和らげるために服用したモルヒネ中毒に陥っていたのであった。フライシュル・マルクスオの中毒が治ったという主張は時期尚早であったが、彼は決して自分に非があったとは認めなかった。フライシュル・マルクスオは急性コカイン精神病を発症し、すぐにモルヒネの使用に戻り、数年後、耐え難い痛みに苦しみながら亡くなった。

麻酔薬としての使用は、コカインの数少ない安全な使用法であることが判明したが、中毒や過剰摂取の報告が世界各地から寄せられるようになるにつれ、フロイトの医学的評判は幾分悪くなった。

「コカインのエピソード」の後、フロイトは公に薬物の使用を推奨することをやめたが、1890年代初期に鬱、片頭痛、鼻炎のために時々自分で摂取し続け、1896年にようやく中止した。

無意識

無意識という概念は、フロイトの心についての説明の中心的なものであった。無意識は、本人の意思では思い出すことができない抑圧されたものであり、それはヒステリーや夢にあらわれるとした。それぞれ、1895年に『ヒステリーの研究』(ヨーゼフ・ブロイヤーとの共著)、1899年には『夢判断、英語:The Interpretation of Dreams (ドイツ語: Die Traumdeutung)』で説明した。

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夢分析(夢判断)

フロイトは、『夢判断』で夢について多くの考察を残した。それによれば、古代ローマ、ギリシャ時代には、夢は神谷デーモンのお告げであり外部からやってくるものだったと説明している。一方、フロイトは夢の機能を、夢を見ている人を目覚めさせるような、(夢の中での)満たされた願望を表現することにより睡眠を維持することだと信じていた。つまり、夢は無意識に隠された願望のあらわれとも説明できる。

フロイトの理論では、夢は日々の出来事や日常生活の思考によって引き起こされる。フロイトが「夢の作業(drean-work)」と呼んだものでは、言語の規則と現実原理に支配されたこれらの「二次過程(二次プロセス)」の思考「言葉の提示」が、快楽原理、欲求充足(願望の充足)、幼少期の抑圧された性的記憶(主に親から性的な誘惑・虐待をされたという記憶)に支配された無意識の思考「物の提示」の「一次過程(一次プロセス)」の対象となるのである。後者の不穏な性質と、それと結びついたかもしれない他の抑圧された思考や欲求のため「夢の作業(dream work)」は検閲の機能を果たし、睡眠を維持するために、抑圧された思考を歪め、ずらし(移動)、凝縮することによって夢を偽装するのである。

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精神性の発達

フロイトは乳幼児期から青年期までの(性的欲求を中心とする精神的エネルギーである)リビドー*の発達を明らかにし、リビドーと関わる体の部位より発達段階は5つあると考えた。そして、各段階でのリビドーの充足・処理のされ方により性格の基本が定まると考えた。

*リビドー:一方、カール・グスタフ・ユングは、リビドーをすべての本能のエネルギーのこととした。

フロイトの心理的発達理論では、幼児期の多形性のある倒錯に続いて、性的「衝動(性的衝動を発動させる力)」が口唇期、肛門期、男根期という異なる発達段階を経るとしている。その後、これらの段階は、その後、性的関心と活動が低下する潜伏期(およそ5歳から思春期まで)に移行するが、多かれ少なかれ、「倒錯した」両性具有的な残滓(残留物)を残し、それが成人の性器形成期にも持続するのである。フロイトの心理性発達理論では、幼児期の性的衝動の最初の多形性倒錯に続き、性的「衝動」が口腔、肛門、男根という個別の発達段階を通過することが提唱されており、神経症や倒錯はこれらの段階への固定や退行によって説明できるが、成人の性格および文化的創造性はそれらの倒錯した残滓(残留物)の昇華を達成できると主張した。

フロイトが後にエディプス・コンプレックスの理論を展開した後、この規範的な発達の軌跡は、去勢の幻影による脅威(あるいは少女の場合は幻影による事実)のもとで、子どもが近親相姦的欲望を放棄するという観点から定式化されるようになる。そして、エディプス・コンプレックスの「解消」は、子どもの親像との対抗意識的な同一視が、類似と差異の両方を想定し、他者の分離と自律性を認める自我の理想のなだめるような同一視へと変容するときに達成される、と述べている。

フロイトは自分のモデルが普遍的に有効であることを証明することを望んでおり、比較材料として古代神話や現代の民族誌に目を向け、トーテミズムは部族のエディプスの対立の儀式化された制定を反映していると主張した。

(心的)構造論

フロイト_エス(イド)・自我(エゴ)・超自我(スーパーエゴ)_ウィキディープ

精神の各部分を相互に関連づけて説明するのに、氷山のような比喩がよく使われる。

フロイトの(心的)構造論は以下のものである。

フロイトは人間の精神(パーソナリティ)をエス(イド)、エス(イド)、自我(エゴ)、超自我(スーパーエゴ)の3つの領域からなると考えた。

エス(イド)・自我(エゴ)・超自我(スーパーエゴ)

フロイト_エスイド・自我・超自我_wikismart_ウィキスマート

エス(イド)・自我・超自我の関係性
引用『史上最強カラー図解 臨床心理学のすべてがわかる本』著:原 達哉

イド、自我、超自我はときに実体的なものと解されがちであるが、実際にはパーソナリティのもつさまざまな過程、もしくは機能に名づけられた名称である。三つの過程はそれぞれ独自の原理をもつが、普通は自我によって統合され、まとまったパーソナリティとしての機能をはたす。

フロイトはこのモデルを1920年に『快楽原則を超えて』という論文で論じ、『自我とイド』(1923年)の中で、それまでのトポグラフィ・スキーマ(意識、無意識、前意識)に代わるものとしてこのモデルを発展し詳しく説明した。

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防衛機制(適応機制)

フロイト_防衛機制(適応機制)_wikismart_ウィキスマート

防衛機制(適応機制)
引用『史上最強カラー図解 臨床心理学のすべてがわかる本』著:原 達哉

フロイトによれば、防衛機制は、超自我(スーパーエゴ)とエス(イド)の対立を自我が解決するための方法である。防衛機制の使用にはエロス(ギリシャ神話の愛の神、ローマ神話のキューピッドにちなんで名づけられた)が必要であり、適度に使用すれば役に立つという。防衛機制の使用は、エス(イド)と超自我(スーパーエゴ)の葛藤を和らげるかもしれないが、使いすぎたり、対立ではなく再使用になると、不安や罪悪感をもたらし、うつ病などの精神障害を引き起こす可能性がある。この分野では、娘のアンナ・フロイトが最も重要な仕事をしたが、彼女はジークムントが防衛機制を始めたと認めている。防衛機制には、否認、反動形成、置き換え、抑圧/抑止、投影(投射)、知的化、合理化、補償、昇華、退行などがある。

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生と死の欲動

フロイトは、人間の精神には「生の欲動(生の衝動、リビドー)」と「死の欲動(死の衝動)」という相反する2つの衝動が存在すると考えていた。生命衝動は「エロス」、死の衝動は「デストルドー(又はタナトス)」とも呼ばれたが、フロイトは後者の言葉を使わず、「デストルドー(タナトス)」はこの文脈でポール・フェデルンが紹介した。フロイトは、リビドーはプロセス、構造、対象表象が投資される心的エネルギー(精神的エネルギー)の一形態であるいう仮説を立てていた。

フロイトは『快感原則の彼岸』(1920年)の中で、死の欲動(死の衝動、デストルドー)の存在を推論している。その前提は、「精神的慣性の原理」「涅槃原則(ねはんげんそく、ニルヴァーナ原則とも)」「本能の保守性」などと表現される調節原理であった。その背景には、フロイトの「科学的心理学プロジェクト」があり、そこでは、精神装置(心的装置)を支配する原理を、自らを量から切り離す傾向、あるいは緊張をゼロにする傾向と定義していたのである。フロイトは、この定義がごく初歩的な種類の精神機能に対してしか適切でないことが判明したため、この定義を放棄せざるを得なくなり、装置が緊張ゼロのレベルへ向かう傾向があるという考えを、緊張(張力)の最小レベルへ向かう傾向にあるという考えと置き換えたのである。

フロイトは『快感原則の彼岸』の中で、この最初の定義を、今度は別の原理に当てはめ、事実上再登場させた。彼は、ある場面で、心は緊張を完全に取り除くか、あるいは事実上、自らを消滅状態にまで落とし込むように行動すると主張し、その重要な証拠が「反復強迫(compulsion to repeat)」の存在であるとしたのである。このような反復(繰り返し)の例としては、トラウマを抱えた神経症患者の夢の生活や、子供の遊びなどが挙げられる。フロイトは、反復という現象の中に、以前の印象を克服し、それを習得し、そこから快感を得ようとする心理的傾向を見出した。この傾向は、快感原則(かいかんげんそく、pleasure principle、S.フロイトによって仮定された精神過程の基本原理。「快楽原理」または「快・不快原則」とも呼ばれ、不快を避け、快を求めようとする傾向をさす。フロイトによれば、リビドーによって緊張が高められた状態は不快であり、これを解消することが快である。人には快を求め、不快を避けようとする先天的な傾向があるというのがその基本的な構想で、イドは、この原始的,本能的な快感原則に従うとされている。)に先行するものではあるが、それと対立するだけのものではなく、快楽原則に対立する、つまり「超える」原理も働いていた。反復がエネルギーや適応の結合に必要な要素であるとすれば、それが過度に長引けば、適応を放棄し、以前の、あるいは進化していない精神的立場(心理的位置)を復活させる手段となってしまうのである。フロイトはこの考えを、すべての繰り返しは放電の一形態であるという仮説と組み合わせることにより、反復強迫を(歴史的に)原始的であると同時にエネルギーの完全な消耗を特徴とする状態、すなわち死を回復するための努力であると結結論付けた。

メランコリー(憂鬱)

フロイトは1917年の論文「喪とメランコリー(憂鬱)、又は、悲哀とメランコリー(憂鬱)、原題;”Trauer und Melancholie”、英訳; “Mourning and melancholia”」の中で、喪に服すことは痛みを伴うが人生の一部であるとし、「メランコリー(憂鬱)」とは喪主が失ったものから「脱皮」することを病的に拒否することであると区別している。フロイトは、通常の喪に服するとき、自我は自己保存の手段として、死者からリビドーを自己愛的に切り離す責任があるが、「メランコリー(憂鬱)」の中にいると、死者に対する両面感情(アンビバレンス、ある対象に対して全く反対の二つの思考、感情、態度などが存在すること。この場合、心的葛藤によって起きる、ためらい、迷いを指す)によって拒まれると主張している。フロイトは、極端な場合、無意識の葛藤が喪主自身のエゴに向けられると、自殺に至る可能性があると仮定した。フロイトは、無意識の葛藤の感情が喪主自身の自我(エゴ)に向けられるようになった極端なケースでは、自殺に至る可能性があると仮説を立てた。

女性らしさと女性のセクシュアリティ

ベルリン研究所のカレン・ホーニーは、女性らしさについての精神分析で議論を最初に開始し、女性のセクシャリティの発達に関するフロイトの説明に異議を唱えようとした。ホーニーは、フロイトの女性の去勢コンプレックスとペニスへの羨望に関する理論をを否定し、フロイトが主張していたような生物学的非対称性の事実、すなわち「損傷」から生じるのではなく、防御的形成としての原始的な女性のセクシャリティとペニスへの羨望を主張したのである。ホーニーは、メラニー・クラインやフロイトの立場を批判する際に「男根主義」という言葉を作り出したアーネスト・ジョーンズの強力な支持を得た。

フェミニスト学者のジャクリーン・ローズは、この批判に対してフロイトを擁護する中で、それは、フロイトが示したものよりも規範的な女性の性的発達の説明を前提にしていると主張している。彼女は、フロイトが、少年の解剖学的構造に直面して「劣等感」や「傷」に囚われた少女の記述から、彼の後期の著作では、「女性的」になる過程を、それまでの精神的・性的生活の複雑さに対する「傷」や「破局」として明確に記述していることを指摘している

フロイトによれば、”クリトリスの性欲は未熟で男性らしいものであるため、女性らしさの発達のためには排除することが必要な前提条件である”。フロイトは、クリトリスの外部刺激によって達成されるクリトリス・オーガズムとは別のものとして、「膣オーガズム(膣のオルガスム)」という概念を提唱した。1905年、彼はクリトリス・オーガズムは純粋に思春期の現象であり、思春期に達すると、成熟した女性の適切な反応はクリトリスを一切刺激しない膣オーガズムに切り替わると述べている。この理論は、フロイトがこの基本的な仮定に何の根拠も示さなかったことや、多くの女性が膣性交だけではオーガズムを得られないと物足りなさを感じることから批判されてきた。

宗教

フロイトは、一神教の神を、強力で超自然的な父なる家族に対する幼児的な感情的欲求に基づく幻想あると考えた。彼は、かつての文明の初期段階では宗教は人間の暴力性を抑制するために必要が、現代では宗教を捨て、理性と科学を優先させることができる主張した。「強迫行為と宗教的慣習(Obsessive Actions and Religious Practices)」(1907年)では、信仰(宗教的信念)と神経症的な強迫観念の間の類似性を指摘している。

『トーテムとタブー (Totem and Taboo, 1913) 』において、人間はもともと一人の男性と複数の女性、そしてこの一夫多妻制の子孫からなる「原始的な群れ(primal hordes)」を形成しており、社会と宗教は強力な父系の人物の父殺しと喰らいつきから始まり、その父系の人物は崇拝される集合的な記憶(集団記憶)となると提唱している。

フロイトの精神分析理論によると、生まれて間もない男の子どもは母親に対して性的な欲望を持つ-エディプス・コンプレックス-とされ、彼はこれを普遍的なものだとした。この点については、後に民族学者が批判し、民族精神分析学的な研究につながっていく。フロイトによれば、父親は保護者であるため息子たちは父親を愛するが、同時に母親との関係で父親に嫉妬している。一人では父を倒せないと判断した息子たちは団結して父を殺し、儀式として食べ、そこで、父の憎むべき力の実体を摂取することになる。しかし、その罪悪感から、息子たちは父の記憶を高め、父を崇拝するようになる。そして、そして、超自我(スーパーエゴ)が父親に代わって内在化された権威の源となるのである。その後、近親相姦や一族内での結婚が禁止され、人間を殺す儀式の代わりに象徴的な動物の生け贄が用いられるようになった。

これらの議論は『幻想の未来(The Future of an Illusion)』(1927年)でさらに展開され、フロイトは宗教的信仰が心理的慰めの機能を果たすと主張した。フロイトは、人間の「自然への恐怖」からの緩衝材として超自然的な保護者への信仰が機能するように、人間の死への恐怖からの緩衝材として死後の世界への信仰が、機能すると主張している。この作品の核となる考えは、宗教的信念のすべては、真理との関係ではなく、社会に対するその機能を通じて説明できるというものである。フロイトによれば、宗教的信念は「幻想」であるというのはこのためである。『文明とそれの不満 、文明への不満、文化への不満(Civilization and Its Discontents)』(1930年)では、宗教を「大洋のような感覚」と表現した友人ロマン・ロランの言葉を引用しているが、自分はこの感覚を経験したことがないと言っている。『モーゼと一神教』(1937年)では、モーゼが部族の家父であり、ユダヤ人に殺され、彼らは心理的に家長殺しに対処し、一神教のユダヤ教の確立に資する反応形成をしていると論じている同様に、ローマカトリックの聖餐式は神聖な父を殺し、食い尽くすことの文化的証拠として記述している。

さらに彼は暴力の抑制を伴う宗教を社会的なものと個人的なもの、公的なものと私的なもの、生と死の力であるエロスとタナトスの対立の媒介者として認識していた。後の著作では、フロイトが文明の将来に対して悲観的であったことが示されており、それは彼が1931年版の『文明とその不満(Civilization and its Discontents)』の中で指摘している。

フロイトは1909年の著作『五歳の少年における恐怖症の分析』の脚注で、割礼を受けていない人が割礼を受けたときには去勢に対する普遍的な恐怖が引き起こされ、これが「ユダヤ主義の最も深い無意識の根源」であると理論づけている。

フロイトの業績と評価

フロイトの記念碑_wikismart_ウィキスマート

北ロンドンのハムステッドにあるジークムント・フロイトの記念碑(オスカー・ネモン作)。この像は、ジグムント・フロイトとアンナ・フロイトが住んでいた場所の近くにあり、現在はフロイト博物館となっている。像の背後にある建物は、心理学的医療の主要機関であるタビストック・クリニックである。

フロイトは精神分析といった心理療法の技術・理論を確立し、それに対して科学的なものを含む様ざな評価や批判がなされた。

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フロイトの名言

  • 愛されていると確信したとき、人はどれほど大胆になれるだろう。
    (婚約者マーサ・バーネイズへの手紙(1882年6月27日)、『ジークムント・フロイトの手紙 1873-1939』(1961年)、10-12に掲載。)
  • あなたの苦しみを取り除くことは、私よりも運命にとって容易であることは間違いありません。しかし、もし我々があなた方のヒステリックな不幸を一般的な不幸に変えることに成功すれば、多くのものを得ることができたと、あなた方自身のために見ることになるだろう。
    (『ヒステリー研究』(1895年、ヨーゼフ・ブロイヤーとの共著)ニコラ・ラックハースト訳(2004年))
  • 自分自身に完全に正直になることは、良い訓練になる。
    (ヴィルヘルム・フリースへの手紙(1897年10月15日)、『精神分析の起源』)
  • 私は少なくともバイセクシャルを過小評価してはいない。. . 私は、それがさらなるあらゆる啓発を与えてくれることを期待している。
    (ヴィルヘルム・フリースへの手紙(1898年3月25日))
  • 実は、私は科学者ではなく、観察者でもなく、実験者でもなく、思考者でもありません。私は、この種の人間に特徴的な好奇心、大胆さ、粘り強さをすべて備えた征服者、つまり冒険家とでも訳すべき人間以外の何物でもないのだ。
    (1900年2月1日、ヴィルヘルム・フリースへの手紙。 ジークムント・フロイトからヴィルヘルム・フリースへの手紙全集 1887-1904 (1985))
  • 夢の解釈は、心の無意識の活動を知るための王道である。
    (『夢の解釈』(1900年)、『ジークムント・フロイト心理学全集標準版』(ジェームズ・ストレイチー訳))

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