フロイトの思想の変遷
初期(1886年〜1896年)
- 神経科医でヒステリー患者が主に訪れていた。
- 治療法:電気療法→催眠療法→暗示→カタルシス療法→自由連想法
- ヒステリーの病因:誘惑理論
- 「性理論三篇」(1905年)
前期(1896年〜1917年)
- 父の死から自己分析
- 幼児性欲
- エディプス・コンプレクス
- 局所論
- 自我欲動と性欲動
後期(1920年〜)
- 『快感原則』→「死の欲動」
- 構造論
- 生の欲動と死の欲動
フロイトの生涯
幼少期
ジークムント・フロイトは、オーストリア帝国のモラヴィア人の町フライベルク(後のチェコ共和国プジーボル)で、ユダヤ人の両親のもとに8人兄弟の最初に生まれた。両親とも現在のウクライナのガリシア出身であり羊毛商人の父ヤコブ・フロイト(1815-1896)には、最初の結婚でエマニュエル(1833-1914)とフィリップ(1836-1911)の二人の息子をもうけた。ヤコブの家はハシディック・ユダヤ教徒で、ヤコブ自身はその伝統から遠ざかっていたが、律法の研究で知られるようになった。ジークムント・フロイトの母は、父ヤコブとは20歳年下で3番目の妻アマリア・ナタンソンであり、1855年7月29日にラビ・アイザック・ノア・マンハイマーの手で結婚した。ジークムント・フロイトの腹違いの2人の兄は、母アマリアと同年であり、その兄の息子でありジークムント・フロイトにとっての甥とは1歳差出会った。その複雑な家庭環境は彼を悩ますことにもなった。
彼らは経済的に困窮しており、息子のシグムンドが生まれたとき、シュロッサーガッセ117の鍵屋の家の賃貸部屋に住んでいた。彼は生まれつき丸刈りで、母親はそれを少年の将来にとって良い前兆だと見ていた。

フロイト発祥の地であるフライベルク (現在のジークムントフロイト博物館プジーボル)
1859年にフロイト家はフライブルクを去った。フロイトの異母兄弟はイギリスのマンチェスターに移住し、幼少期の「切っても切れない」遊び相手であったエマニュエルの息子ジョンと別れることになった。ヤコブ・フロイトは、妻と2人の子供(フロイトの姉アンナは1858年に生まれ、弟ユリウスは1857年に生まれ、幼少時に死亡)を連れて、まずライプツィヒに、そして1860年にはウィーンに移り、4人の姉と1人の弟が誕生した。ローザ(1860年生)、マリー(1861年生)、アドルフィーネ(1862年生)、パウラ(1864年生)、アレクサンダー(1866年生)である。
ギムナジウム時代
*ギムナジウム:
ドイツ語でGymnasium、ヨーロッパの中等教育機関で日本いう中高一貫校にあたる。
私立の小学校に通った後、フロイトは幼い頃から優秀だったため他の生徒よりも1年早く、1865年からレオポルトシュタットの共同体・レアルギムナジウム*に通うようになった。古代の言語を学び、歴史的な知識を身につけることに重点を置いた人文主義的な教育は、フロイトの適性と興味に合っていたのである。自供によれば、読んだ本の長い文章を暗唱することができるようになったという。義務教育の読書に加えて、彼は自分自身で前ソクラテス、プラトン、アッティカの悲劇家の著作を読み、考古学的研究、特にトロイに関するハインリッヒ・シュリーマンの研究に没頭した。
兄妹の中で唯一、アパートの中に自分の部屋があり、その部屋をどんどん本で埋めていった。読書の時間を無駄にしないためにも、食事はそこで取ることが多かった。フロイトは妹たちの宿題を手伝いながらも、自分の塾や勉強には精力的に配慮を求めたアンナがピアノのレッスンをしていた騒音について、彼が本に埋もれながらも苦情を言ったとき、ピアノは永久に姿を消したのだ。 家族は彼の「若さゆえの無礼さ」を冷静に受け止め、彼自身が例外であるという感覚を強めていった。
現代のオーストリアの中学校でタイヤの試験を準備するには、何カ月もかけて徹底的に暗記する必要があった。しかし、1873年7月に行われた最終試験では希望、動揺、落胆、歓喜といった様々な感情を抱きながら試験に臨み、見事な結果を残すことができた。7科目で最高ランクの「優秀」を獲得した。古代ギリシャ語への翻訳課題は、ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』から33節を選んでいた。同年、フロイトはソフォクレスの悲劇のドイツ語版を入手し、後にそれを使って仕事をするようになる。
フロイトは文学を愛し、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、英語、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語に堪能であった。
ウィーン大学の医学部生時代
フロイトは17歳でウィーン大学に入学した。最初は法律を学ぶつもりだったが、大学の医学部に入り、フランツ・ブレンターノのもとで哲学を、エルンスト・ブリュッケのもとで生理学を、ダーウィン主義者のカール・クラウスのもとで動物学を学んだ。動物解剖学に興味を持ち、解剖学者になるのが夢になっていった。
1876年、フロイトはトリエステにあるクラウスの動物学研究所で4週間過ごし、何百匹ものウナギを解剖して、雄の生殖器官(精巣)を探したが、結論は出なかった(最終的には小さすぎて見つからなかったウナギの精巣を発見するという功績を上げた)。1877年、フロイトはエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に移り、そこで6年間、人間や他の脊椎動物の脳とカエル、ザリガニ、ウナギのような無脊椎動物の脳を比較した。神経組織の生物学に関する彼の研究は、その後1890年代にニューロン(神経細胞)が発見される際に重要な役割を果たした。1879年、フロイトの研究活動は1年間の兵役義務により中断された。この長い休止期間のおかげで、ジョン・スチュアート・ミルの著作集から4つのエッセイの翻訳を依頼され、それを完成させることができた。1881年3月、医学博士号を取得した。
ウィーン総合病院で医学者時代
1882年、フロイトはウィーン総合病院で医学者としてのキャリアをスタートさせた。大脳解剖学の研究により、1884年にコカインの緩和効果に関する影響力のある論文を発表し、失語症に関する研究は、1891年に出版された彼の最初の著書『On the Aphasias: a Critical Study(失語症について:批判的研究)』の基礎となるものである。フロイトは3年間にわたり、病院のさまざまな部署で働いた。テオドール・マイネートの精神科診療所や地元の精神病院での研修生として過ごしたことが、臨床活動への関心を高めることにつながった。当時の医学は、原因を器質の病変に求めるのが主流であった。
その結果、多くの研究成果を発表し、ブリュッケル(生理学)、ノートナーゲル(内科)、クフラト・エービング(精神医学)の3教授に推薦を受け、1885年に神経病理学の大学講師(無給)に任命され、ウィーン大学で講義を行うことができるようになった。
シャルコーとの出会い
1885年10月、フロイトは、催眠の科学的研究を行っていた著名な神経学者ジャン=マルタン・シャルコーのもとで学ぶために、3ヵ月間のフェローシップでパリに赴いた。後にフロイトは、この滞在での経験を、神経学研究という経済的にあまり期待できないキャリアから離れ、医学的精神病理学の実践(精神科の医師)へと向かうきっかけとなったと回想している。ユダヤ人であるために教授の地位につきにくかったという事情もある。 シャルコーは、当時の流行り病であったヒステリーや催眠に対する感受性の研究を専門とし、観客の前のステージで患者を相手に頻繁に催眠術の実演を行った。具体的には、手足の運動麻痺などの症状を出現・消滅といったようにコントールしてみせた。
当時のウィーンでは邪悪なものとして排斥されていた催眠術がここでは実際に用いられていた。 フロイトはシャルコーの下でヒステリーの研究にインパクトを受けた。当時、ヒステリーは男性にはあらわれないと考えられてた。しかし、それに反して男子にも現われること、催眠法による暗示で麻痺や硬直の症状が発生したり、解消したりすることをみて大きな感銘を受けた。
神経科を開業
1886年にウィーンで開業すると、器質的な原因の患者は、他の専門家へまわし、フロイト自身はヒステリーや強迫神経症といった神経症の患者を中心に治療を行なった。当時一般的であった水治法、電気療法、マッサージを行なったがあまり効果はなかった。
一旦、ウィーンへ帰ったが1889年、再びフランスを訪れ、ナンシーのベルネイムの下で学び、後催眠暗示の現象に興味をもった。 催眠状態の患者は受けた指示を実行するものはなぜそのようにするのか気づかず、しかも指示通りに行なっている。実際の治療としては、反対暗示をかけ原因観念を押さえ込む方法であった。フロイト は人間の意識には隠されていて気がつかないでいる、ある心理的過程が存在していることを確信した。そしてヒステリーの患者は、無意識のなかにひそんでいる感情のもつれを解きほぐすこと以外に治療法はないと考えるようになった。
彼は、友人であり共同研究者であったヨーゼフ・ブロイヤーのアプローチを採用したが、この治療法は、彼が研究したフランス風のやり方とは異なり、暗示を用いないタイプのものであった。フロイトは催眠が苦手だった。催眠療法から徐々に前額法(注意集中法)(1982年)や自由連想法(1982年〜)を併用し治療を行うようになっていった。
ブロイヤーのある患者の治療が、フロイトの臨床に大きな変化をもたらすことになった。アンナ・Oと呼ばれる彼女は、催眠中に自分の症状について話すように誘われた(彼女はこの治療法を「談話治療(おしゃべり療法、”talking cure” )」という言葉で表現することになる)。このようにして話をするうちに、彼女は症状の発症に関連するトラウマ的な出来事の記憶を取り戻しつつも、症状が軽くなっていったのである。
アンナ・Oの治療
1880年11月、ブロイヤーは非常に知的な21歳の女性アンナ・O*(本名:ベルタ・パッペンハイム)*のしつこく続く咳の治療に呼ばれ、ヒステリーと診断された。彼女は、瀕死の父親を看病している間に、視覚障害や手足の麻痺・拘縮などの一過性の症状を発症していることがわかり、これもヒステリーと診断された。ブロイヤーは、彼女の症状が強く、しかも持続するようになったので、ほぼ毎日診るようになり、そして彼女は欠勤状態になった。彼の勧めで、彼女の夜の休息時に空想話をすると、症状が改善し、1881年4月にはほとんどの症状が消えていった。しかし、1881年4月に父親が亡くなり、再び病状が悪化した。このとき、いくつかの症状は自然に治まり、特定の症状が出るきっかけとなった出来事を思い出すよう誘導することで完治したことが、ブロイヤーの記録に残っている。
*アンナ・Oこと、ベルタ・パッペンハイム(Bertha Pappenheim、1859-1936):
彼女の症状には「コップから水が飲むことができない」「紐を見ると腕が痺れる」「ダンス音楽を聴くと咳が出る」といったものがあった。
「コップから水が飲むことができない」症状が改善したのは以下のような状況であったようだ。ある時アンナ・Oは自ら催眠状態に入って偶然、彼女が(実は)嫌いな女性家庭教師に対する悪口を言い、さらに続けて「家庭教師が小さな飼い犬(彼女の言では、気持ちの悪いけだもの)にコップで水を飲ませているのを見て強い嫌悪感に襲われた。でもぶしつけになってはいけないと、このことを言うのを黙っていた」と溜まっていた怒りを語ったのである。そして催眠状態のままコップの水を飲み、催眠から目を覚ました。
「紐を見ると腕が痺れる」症状は「父親の看病中に幻覚のヘビを追い払おうとしたが腕が痺れていた記憶」、「ダンス音楽を聴くと咳が出る」症状は「父親の看病中にダンスに行きたかった自分への罪悪感」といった抑圧されたものを談話療法を通して吐き出すことでその症状を改善させていった。
ブロイヤーの治療直後の数年間、アンナ・Oは「身体症状」を伴う「ヒステリー」という診断で3回の短期間療養生活を送っており、ブロイヤーが発表した治癒の説明に異議を唱える著者もいる。リチャード・スクースは、この解釈を否定した上で、この事例はフロイト主義と反精神分析的修正主義の両方に由来すると見ており、ブロイヤーの事例の語り口は信頼できないものであり、アンナ・Oの治療は失敗だったとみなしている。心理学者のフランク・サロウェイは、「フロイトのケースヒストリーは、検閲、歪曲、極めて疑わしい『再現性』、誇張された主張が横行している」と論じている。1953年、アーネスト・ジョーンズによって書かれた『フロイトの生涯』といったフロイトの伝記では、「ブロイアーはアンナ・Oの彼への恋愛転移に度を失い、治療を中断し、彼女の治療に没頭する夫に不満を持っていた妻とイタリア旅行に行ってしまう」「ブロイアーの妻は旅行先で妊娠し翌年女児を生んだ」「治療を中断されたアンナ・Oはその後数年間症状に苦しみ続け、長い入院を余儀なくされた」といった事実があったことが書かれている。しかし、『フロイトの生涯』に書かれたこの内容にも誤りがあるのではないかという意見*もある。
*『フロイトとアンナ・O――最初の精神分析は失敗したのか』リチャード・A・スクーズ (著), 岡元 彩子 (翻訳), 馬場 謙一 (翻訳):
この著書では、アンナの治療が失敗だったのかを『ヒステリー研究』の治療記録、アンナの入院先の医師による記録、関係者の書簡、追跡研究などの膨大な資料を掘りおこし、その治療結果の真実に迫った。
「アンナ・Oのブロイヤーへの恋愛感情」だが、ブロイヤーがアンナ・Oに対して、寝食も時間も抜きにして尽くすという献身的な治療態度(自分では食事をしなくなっていた時期には彼から直接食べさせてもらったりもしている。)を取っており、実際ブロイヤーはアンナが自分に対して恋愛感情を持っていることをフロイトにほのめかしていたようだ(想像妊娠が実際にあったのかは定かではない)。(この「アンナ・Oのブロイヤーへの恋愛感情」のことを、後にフロイトが「転移」と名付けた。)しかし、ブロイヤーがそのことで治療を中断させたのではなく、アンナ・O自身が治療を終わらせる時期をもともと決めていたのである(だが、その「転移」の症状にブロイヤーが対処に困っていたのも事実である)。
また、「ブロイアーの妻は旅行先で妊娠し翌年女児を生んだ」という内容に関してだが、ヒルシュミュラーは、ブロイアーの娘ドラがアンナの治療が終了する以前にすでに誕生していたことを明らかにした。さらに彼は、1882年6月にアンナがブロイヤーの治療を終えた後、入所したサナトリウムでの主な目的は、三叉神経痛で用いたモルヒネ依存からの離脱だったと指摘している。このようにアンアの治療が失敗と語られている内容には誤りがあることが後年の研究によって明らかになっている(諸説あり)。
ベルタ・パッペンハイム(O.アンナ)は、その後三度ほど入退院を繰り返しながらも健康を取り戻し、1888年29歳頃より以降、児童・女性の社会福祉の充実に尽力する先駆的なケースワーカー(慈善活動家)として、数々の重要な仕事を成し遂げた。約50年にわたりユダヤ女性の地位向上、人身売買の廃止運動、『ユダヤ婦人連盟』を結成し女性の参政権獲得運動を行なった。他にも、ヨーロッパ各地のユダヤ人女性の現状を視察、孤児院の院長を長く勤め、 保護施設の設立、メアリ・ウルストンクラフトの古典的名著『女性の権利擁護』をドイツ語に翻訳し、自ら『女性の権利』という戯曲も出版するなど多彩で精力的な活動を終生つづけて、ドイツのフェミニズムとソシャルワークのパイオニアと見なされている。1954年には、西ドイツで彼女の社会事業・社会福祉活動・ソーシャルワークを賞賛する記念切手も発行されている。
ヒステリー研究から精神分析へ
初期の臨床研究の結果にばらつきがあったことから、フロイトは最終的には催眠療法を放棄し、患者が思いついたことや記憶を検閲や抑制なしに自由に話すことで、より安定した効果的な症状の緩和が得られると結論づけた。フロイトは、この「自由連想法」と呼ばれるこの方法と併せ、無意識の世界を探求する方法として患者の夢を分析することで、無意識の物質の複雑な構造を明らかにし、症状形成の根底にある抑圧の心理的作用を実証できることを発見したのである。
フロイトとブロイヤーは、論文『ヒステリー現象の心的機制について』(1893)を発表し、さらに『ヒステリー研究(原題:Studien über Hysterie、英題:Studies on Hysteria)』(1895年)を刊行した。『ヒステリー研究』では、ブロイヤーのアンナ・Oの症例とフロイトの患者症例4つを加え、神経症の原因と仕組みを説明した。しかし、ブロイアーと神経症の病因の考え方の差異で袂を分つことになる。フロイトは神経症の原因を性的なものとして扱った。フロイトは「防衛 – 神経精神症再論」(1896年5月15日)を発表し、神経症の原因である防衛の要因としての性的なものに関する議論を行なった。
1895年7月、フロイト自身が見た「イルマの注射」の夢から、初めて夢の解釈(夢分析)に成功した。イルマが治らないのは、自分のせいではないという願望だと自己分析をし、隠れた願望の充足が夢の本質であるということを見出した。この洞察は精神分析に大いに利用されることになる。
神経症には幼児期の性的外傷体験があるとした誘惑理論(性的外傷論、1896年)を発表した。フロイトは、神経症には現勢神経症と精神神経症があり、前者が現在の性生活が病因、後者が幼児期の性的外傷体験が病因と説明した。
1896年には、フロイト彼の新たな臨床方法とその基礎となる理論を指す言葉として「精神分析(精神分析学*)」という言葉を用いるようになっていた。精神分析学の基礎的理論はこのように臨床上の経験を通して徐々につくられていったのである。
*精神分析学(Psychoanalysis):
オーストリアの神経学者ジークムント・フロイトによって構築された理論体系。初めは神経症の治療のために出来あがっていたが、後にはそれを包含し、治療論・人格論・発達論・性理論・無意識論・自我論・芸術論といったひとつの専門分野になっていった。
今日、精神分析という言葉にはつぎのような三つの意味がある。第一は、夢、空想、ふと思いついたことなどを解釈して精神の深層を探究しようとする方法で、深層心理学といわれる。人間の意識現象や行動を表面にあらわれたものによってでなく、意識には達しない深い心的過程、つまり無意識から説明しようとするものである。第二は、このような方法によって神経症の発生の経過を解明し、これを治療しようとする臨床的技術をさしている。前述の催眠法やフロイトが好んで用いた自由連想法がここで用いられる。第三にはかかる治療法の理論的解明に基礎をおき、そこでの臨床経験を集約したパーソナリティや行動に関する理論体系を意味している。もともとは神経症の治療技術であった精神分析学はしだいに精神医学の範囲を越えて発展し、今では患者の心の中を理解するだけでなく、ひろく心理現象一般を明らかにするための心理学の研究方法となっている。
精神分析の理論の根幹をなすものとして、フロイト自身は小児期体験の重視、小児性愛論、抑圧についての考え方、無意識の重視などをあげている。またホーナイは、フロイトの思想の中で、もっとも基本的な点は心的決定論の立場をとっていること、行為や情動が意識されない動機によって決定されるということ、人をかりたてている動機は情動的な力であることなどをあげている。
フロイトの父の死
1896年に父が死、自称「神経症(ヒステリー)」に陥り、自ら自己分析(自己分析は1903年まで続く)を行なった。夢を手がかりに幼児体験を探り、「母を愛し、父を憎む」感情を発見(1897)した。これはエディプス・コンプレックスと呼ばれる。フロイトの患者である強迫神経症の若い男性の事例がヒントでった。彼は父の死後「夢の中で母と寝た」と語った。この感情は、『エディプス王』『ハムレット』にも見られ、そこから一般性を確信した。神経症の原因は、外傷体験(誘惑理論)から人が普遍的に持つディプス・コンプレックスとした。この自己分析以降、心の深層を探る方法はもっぱら自由連想法になった。
フリースとの関係
この仕事の形成期、フロイトは、1887年に初めて出会ったベルリンを拠点とする耳鼻咽喉科医、友人のウィルヘルム・フリースを高く評価し、知的・精神的サポートを得るようになる。フリースとフロイトは、二人とも、性についての根本的に新たな理論を構築するという野心を持っていたため、一般的な臨床や理論の主流から孤立していた。フリースは、人間の生体リズム(バイオリズム)と鼻腔のつながりに関する非常に風変わりな理論を展開したが、これは今日では疑似科学とみなされている。彼は、マスターベーション、性交中断、コンドームの使用といったセクシュアリティの特定の側面が、当時 「現実神経症」 と呼ばれていた神経衰弱や身体的に現れた不安症状の病因として重要であるというフロイトの見解を共有した。二人の間には膨大な手紙のやりとりがあり、フロイトは小児性欲や両性愛(バイセクシュアリティ)に関するフリースの思索を参考にし、自分の考えを練り直した。フロイトの体系的な心の理論の最初の試みである『科学的心理学のためのプロジェクト』は、フリースを対話者として形而上学(メタ心理学)として展開されたものである しかし、神経学と心理学の間に橋を架けようとするフロイトの努力は、フリースへの手紙が明らかにしているように、最終的には行き詰まり、放棄された。フリーススへの手紙が明らかにしているように、プロジェクトのいくつかのアイデアは「夢判断、英語:The Interpretation of Dreams (ドイツ語: Die Traumdeutung)」 の最終章で再び取り上げられることになっていた。
フロイトは「鼻腔反射神経症」を治療するため、フリースに鼻と副鼻腔の手術を繰り返してもらい、その後、患者のエマ・エクスタインを紹介した。フロイトによれば、彼女の病歴には、激しい足の痛みとそれによる運動制限、そして胃痛と月経痛があった。これらの痛みは、フリースの理論によれば、常習的な自慰行為が原因であり、鼻と生殖器の組織がつながっているため、中鼻甲介の一部を切除すれば治るものであった。フリースの手術は悲惨な結果となり、大量の鼻出血を繰り返した。フリースは、エックステインの鼻腔にガーゼを半分ほど残しており、そのガーゼを除去した後、彼女は後遺症に悩まされることになる。当初、フロイトはフリースに責任があることを認識していたが(フロイトは恐怖のあまり手術の現場から逃げ出した)、フリースとの手紙のやり取りの中で、自分の悲惨な役割の本質を繊細に伝えることしかできなかった。その後の手紙では、この件については機転を利かせ沈黙を守るか、エクスタインのヒステリーの話に戻って面目を保ったのだった。フロイトは最終的に、エクスタインの病歴である思春期の自傷行為や鼻血(および月経)の不正出血を考慮したあげく、エクスタインの術後の出血は「病気の時に愛されたいという昔からの願い」に関連したヒステリックな「願いの出血」であり、「(フロイトの)愛情を取り戻す」ための手段として引き起こされたものであるとして、フリースには「全く非がない」と結論づけた。しかし、エクスタインはフロイトのもとで分析を続けた。彼女は完全に運動能力を取り戻し、自ら精神分析を実践するようになった。
フリースを「生物学のケプラー」と呼んでいたフロイトは彼の理論的及び臨床的な仕事の両方を過大評価していたが、ことの背後に、同性愛的愛着と「ユダヤ的な神秘主義(ユダヤ人の友人に対する彼の忠誠心)」の組み合わせがあると後に結論づけている。しかし、フロイトが自分の性周期説を認めようとしないことに腹を立てたフリースは、自分の研究を盗用したとして彼を非難し、二人の友情は険悪なものとなった。1906年にフロイトが『性の理論に関する3つの論考(性の理論に関する三つのエッセイ)』の共同出版をしようとしたが、フリースがそれに応じなかったため、二人の関係は終わりを迎えた。
初期の信奉者
1902年、フロイトはついに長年の夢であった大学教授になることを実現する。フロイトにとって、「臨時教授」という称号は、給与がなく教育上の義務を伴わないが、認知度と名声面で重要な意味を持っていた(彼は1920年に「(個室のある)教授」というより高い地位を与えられることになる)。大学からの支援にもかかわらず、彼の任命は、政治当局によって何年にもわたって阻止され続け、より影響力のある元患者の一人、マリー・フェルステル男爵夫人の介入によって確保された。彼は、(おそらく)教育大臣に貴重な絵画を賄賂として贈与しなければならなかった。
このようにして名声を高めたフロイトは、1880年代半ばにウィーン大学の教官として、毎週土曜日の夜、大学の精神科診療所の講堂で少人数の聴衆に向けて仕事に関する定期的な講義を続けた。
1902年の秋からは、フロイトの研究に興味を示していた多くのウィーンの医師たちが、毎週水曜日の午後にフロイトのアパートに招かれ、心理学や神経病理学に関する問題を議論していた。このグループは水曜心理学会(Psychologische Mittwochs-Gesellschaft)と呼ばれ、世界的な精神分析運動の始まりとなった。
フロイトがこの討論会を設立したのは、医師のヴィルヘルム・シュテッケルの提案によるものであった。シュテッケルはウィーン大学でリヒャルト・フォン・クラフト・エービングのもとで医学を学んでいた。彼が精神分析に転向したのは、性の問題でフロイトの治療を受けて成功したからであるとか、『夢判断』を読んだ結果であるなど様々に言われているが、彼は後に、ウィーンの日刊紙『Neues Wiener Tagblatt』で肯定的な批評をしている。
フロイトが招待した他の3人のオリジナル・メンバー、アルフレッド・アドラー、マックス・カハネ、ルドルフ・ライトラーもまた医師であり、5人とも生まれつきユダヤ人であった。カハネもライトラーもフロイトの幼なじみだった。カハネは同じ中学に通い、カハネとライトラーはフロイトと一緒に大学に通っていた。彼らはフロイトの土曜日の夜の講義に出席し、彼の考えの進展に遅れないようにしていた。1901年には、シュテッケルにフロイトの仕事を最初に紹介したカハネが、ウィーンのバウエルンマルクトに自分が所長を務める外来精神療法研究所(外来患者心理療法研究所)を開設した。同年、医学書『学生と開業医のための内科学概論』が出版された。その中でフロイトの精神分析法の概要を説明している。カハネはフロイトと決別し、1907年に理由は不明だが水曜心理学会を脱退し、1923年に自殺した。ライトラーは1901年に設立されたドロテアガッセの温熱療法施設の所長であった。彼は1917年に夭折した。初期のフロイト派の中で最も手ごわい知識人とみなされていたアドラーは社会主義者で1898年に仕立て屋のための健康マニュアルを書いた。彼は精神医学の潜在的な社会的影響に特に興味を持っていた。
1900年にフロイトと初めて出会い、水曜会の最初の発足後すぐに参加したウィーンの音楽学者で「リトル・ハンス」の父親であるマックス・グラフは、水曜会の初期の会合の儀式や雰囲気について次のように語っている。
集会は明確な儀式に従っていた。まずメンバーの一人が論文を発表する。それからブラックコーヒーとケーキが出され、葉巻とタバコがテーブルに置かれ大量に消費された。そして、15分ほどで討論が始まる。最後に決定的な言葉を発するのは、いつもフロイト自身であった。その部屋には、ある宗教の創設のような雰囲気があった。フロイト自身がその新しい預言者であり、これまで一般的だった心理学的調査の方法を表面的なものに見せてしまったのである。
1906年までにグループは16人のメンバーに成長しており、その中にはグループの有料秘書として雇われていたオットー・ランクも含まれていた。同年、フロイトはカール・グスタフ・ユングと文通を始めた。その頃、ユングは、チューリッヒのブルクヘルツリ精神病院でオイゲン・ブルーラーの助手をしていたが、すでに言語連想とガルバニック皮膚反応の研究者として学術的に高く評価されており、チューリッヒ大学で講師を務めていたユングが行った言語連想検査は、患者に100個の単語を次々と示し、その言葉から連想することを自由に答えてもらうテストである。ユングは連想をするまでの時間が長くかかるなど、患者が他の言葉のケースとを異なる反応を示した言葉には負の感情が働いていると考えた。それを患者に乗り越えさせようとしたのがユングの治療である。ユングはフロイトの後継者と見なされたこともあったが、後に意見の対立が明らかとなり決別することとなる。1907年3月、ユングは自分と同じスイスの精神科医であるルートヴィヒ・ビンスワンガーとともにウィーンに赴き、フロイトを訪ねて討論会に参加した。その後、彼らはチューリッヒに小さな精神分析グループを設立した。1908年、水曜会はその組織的地位の高まりを反映し、フロイトを会長とするウィーン精神分析学会として再結成されたが、フロイトは1910年にその地位を手放し、アドラーを支持することで彼のますます批判的な立場を中立化することを望んだのであった。
最初の女性会員であるマルガレーテ・ヒルファーディングは1910年に学会に入会し、翌年にはロシアの精神科医でチューリッヒ大学医学部を卒業したタチアナ・ローゼンタールとサビーナ・シュピールラインが加わった。シュピールラインはチューリッヒ大学医学部を卒業する前に、ブルグヘルツリでユングの患者となっており、二人の関係の臨床的及び個人的な詳細は、フロイトとユングの間の膨大な書簡(文通)の対象となった。二人とも、1910年に設立されたロシア精神分析協会の活動に重要な貢献をすることになる。
フロイトの初期の信奉者たちは、1908年4月27日にザルツブルクのホテル・ブリストルで初めて正式に会合を開いた。この会議は、後になって第1回国際精神分析会議とみなされたもので、当時ロンドンに住んでいた神経科医で,フロイトの著作を発見し,臨床に精神分析の手法を適用し始めていたアーネスト・ジョーンズの提案により開催された。ジョーンズは前年の学会でユングと出会い、大会を組織するためチューリッヒで再会する。ジョーンズの記録によれば、「42人が出席し、その半数が実践的な分析家であるか、あるいは分析家になった」という。ジョーンズやフロイトとユングに同行したウィーンとチューリッヒのメンバーに加えて、ベルリンのカール・エイブラハムとマックス・エイティンゴン、ブダペストのサーンドル・フェレンツィ、そしてニューヨークのエイブラハム・ブリルが出席し、その後の精神分析運動において重要な役割を果たしたのである。
この大会では、フロイトの著作の影響力を高める重要な決定がなされた。1909年には、ユングが編集長を務める雑誌『精神分析学・精神病理学研究』(Jahrbuch für psychoanalytische und psychopathologishe Forschungen)が創刊され、1910年にはアドラーとシュテッケルが編集する月刊誌『Zentralblatt für Psychoanalyse』が、1911年にはランクが編集する文化・文学研究分野への精神分析の応用を目的とした雑誌『Imago』が、1913年には同じくランクが編集する『Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse』が刊行されている。1910年のニュルンベルク大会では、国際的な精神分析家協会の設立が計画され、ユングがフロイトの支持を受けて初代会長に選出された。
フロイトは、英語圏で精神分析を広めるという野望のために、ブリルとジョーンズに目をつけた。両者はザルツブルグ会議の後にウィーンに招待され、フロイトの著作物の翻訳権をブリルに与え、その年の後半にトロント大学に赴任することになっていたジョーンズには、北米の学術・医学界でフロイトの思想のためのプラットフォームを確立するという役割分担が合意された。 ジョーンズの提唱により、マサチューセッツ州ウースターにあるクラーク大学の学長スタンリー・ホールの招きで、1909年9月、フロイトはユングとフェレンツィを伴いアメリカを訪問し、精神分析に関する5つの講義を行った。

1909年、クラーク大学の前での集合写真 前方:ジークムント・フロイト、グランヴィル・スタンリー・ホール、C.G.ユング 後方:アブラハム.A.ブリル、アーネスト・ジョーンズ、サンドル・フェレンツィ
フロイトに名誉博士号が授与されたこのイベントは、フロイトの仕事が初めて公に認められたもので、広くメディアの関心を集めた。フロイトの聴衆の中には、ハーバード大学の神経系疾患の教授である著名な神経科医・精神科医のジェームズ・ジャクソン・パットナムも含まれており、彼はフロイトを自分の田舎の隠れ家に招待し、4日間に渡って広範囲な議論を行った。その後、パットナムはフロイトの仕事を公に承認し、アメリカにおける精神分析学にとって重要な突破口となった。1911年5月にパトナムとジョーンズがアメリカ精神分析協会の設立を組織したとき、彼らはそれぞれ会長と幹事に選出された。ブリルは、同年、ニューヨーク精神分析協会を設立した。1909年からは、フロイトの著作の英訳が出版されるようになった。
IPAからの脱会者
その後、フロイトの信奉者の中には、国際精神分析協会(IPA)を脱退し、独自の学派を立ち上げた者もいた。
1909年以降、神経症などに関するアドラーの見解は、フロイトの見解と大きく異なるようになる。アドラーの立場はフロイト主義と次第に相容れなくなり、1911年1月から2月にかけて開催されたウィーン精神分析協会では、両者の見解の対立が相次ぐことになる。1911年2月、当時の会長であったアドラーは辞任した。このとき、シュテーケルも副会長を辞任している。1911年6月、アドラーはついにフロイト派を完全に脱退し、同じく脱退した9人のメンバーとともに自らの団体を設立する。この新しい組織は、当初、自由精神分析協会と呼ばれていたが、すぐに個人心理学協会と改名された[83]。第一次世界大戦後の時期には、アドラーは個人心理学と呼ばれる彼が考案した心理学的な立場との関係を深めていった。
1912年、ユングは『Wandlungen und Symbol der Libido』 (1916年に『無意識の心理学(Psychology of the Unconscious)』として英語で出版) を出版し、彼の見解がフロイトの見解とは全く異なる方向に向かっていることを明確にした。ユングは自分のシステムを精神分析と区別するために分析心理学と呼んだ。フロイトとユングの関係が最終的に決裂することを予想していたアーネスト・ジョーンズは、精神分析運動の理論的一貫性と組織的な遺産を守るため、忠実なメンバーからなる秘密委員会の結成に着手した。1912年秋に結成されたこの委員会は、フロイト、ジョーンズ、アブラハム、フェレンツィ、ランク、ハンス・サックスの5人がメンバーであった。1919年にはマックス・アイトンが委員会に加わった。いずれのメンバーも、他のメンバーと話し合う前には、精神分析理論の基本的な考え方から公に離れないことを誓った。このような経緯を経て、ユングは自分の立場が危ういことを認識し、1914年4月に『年報(Jarhbuch)』の編集者とIPAの会長を辞任した。チューリッヒ協会は翌年7月にIPAから脱退した。
同年末、フロイトは「精神分析運動の歴史」と題した論文を発表し、ドイツ語の原著は『年報』に掲載されており、精神分析運動の誕生と発展、アドラーとユングの脱退についての見解を述べている。
フロイトの側近からの最終的な離反は、1924年にランクが『誕生のトラウマ』を出版した後に起こった。この本は、事実上、精神分析理論の中心的教義としてのエディプスコンプレックスを放棄したものだと、他の委員会メンバーは読んでいた。エイブラハムとジョーンズは、ますます強力にランクを批判するようになり、彼とフロイトは長年の親密な関係を終わらせたくないと思っていたが、1926年にランクがIPAの公職を辞してウィーンからパリに向かったときに、ついに決別することになる。委員会での彼の地位はアンナ・フロイトに奪われた。ランクは、最終的にアメリカに移住し、フロイトの理論を修正し、IPAの正統派に違和感を持つ新しい世代のセラピストに影響を与えることになった。
初期の精神分析運動
1910年にIPAが設立されると、精神分析学会、研修機関、診療所の国際的なネットワークが確立され、第一次世界大戦後には、それらの活動を調整するため、会議が年に2回、定期的に開始されるようになった。
アブラハムとアイティンゴンは、1910年にベルリン精神分析協会を設立し、1910年にベルリン精神分析協会を、1920年にはベルリン精神分析研究所と外来診療科(Poliklinik)を設立した。外来診療科の自由診療や児童分析における革新、ベルリン研究所の精神分析トレーニングの標準化は、大きな影響を広く精神分析運動に与えた。1927年にはエルンスト・ジンメルがベルリン郊外にシュロス・テーゲル療養所を設立したが、これは制度的な枠組みの中で精神分析的治療を行う最初の施設となった。フロイトはその活動資金をを支援するために基金を組織し、建築家の息子エルンストは、建物の改修を依頼された。しかし、経済的な理由から1931年に閉鎖を余儀なくされた。
1910年のモスクワ精神分析協会は、1922年にロシア精神分析協会・研究所となった。ロシア人のフロイト信奉者たちは、ブリルの英語版よりも9年前に出版された1904年の『夢判断、英語:The Interpretation of Dreams (ドイツ語: Die Traumdeutung)』のロシア語翻訳の恩恵を最初に受けた。1904年にロシアで翻訳された『夢判断、英語:The Interpretation of Dreams (ドイツ語: Die Traumdeutung)』は、ブリル社の英語版よりも9年早く出版された。ロシア研究所は、フロイトの作品の翻訳を出版するなど、その活動に対する国家の支援を受けていた点でユニークであった。しかし、1924年にヨシフ・スターリンが政権を握ると、その支援は突然打ち切られ、その後、精神分析学はイデオロギー的な理由から非難されるようになった。
1911年にアメリカ精神分析協会の設立に協力したアーネスト・ジョーンズは、1913年にカナダからイギリスに戻り、同年にロンドン精神分析協会を設立した。1919年、ジョーンズはこの組織を解散し、ユング派の信者を追放し、残った中心メンバーで英国精神分析協会を設立し、1944年まで会長を務めた。1924年には精神分析研究所が、1926年にはロンドン精神分析クリニックが設立され、いずれもジョーンズが所長を務めている。
1922年にウィーン・アンビュレイタリアム(診療所)が設立され、1924年にはヘレーネ・ドイチュの指揮のもと、ウィーン精神分析研究所が設立された。フェレンツィは、1913年にブダペスト精神分析研究所を1929年に診療所を設立した。
アドルフ・ヒトラーが政権を握った後、ベルリンから逃れたアイティンゴンにより、スイス(1919年)、フランス(1926年)、イタリア(1932年)、オランダ(1933年)、ノルウェー(1933年)、パレスチナ(エルサレム、1933年)で精神分析協会や研究所が設立された。1931年、ニューヨーク精神分析研究所が設立された。
1922年のベルリン大会がフロイトの最後の参加となった。この頃までには、癌のある顎の一連の手術の結果として必要となった補綴具により、言語能力が著しく損なわれていた。彼は、彼の主要な信奉者(支持者)と定期的な手紙や、秘密委員会の回覧板と会議を通して、進展状況を把握し続けた。
委員会は1927年まで機能しており、その頃には、国際研修委員会の設立など、IPA内の制度的な発展により、精神分析の理論と実践の伝達に関する懸念が解消されていた。しかし、素人分析の問題、すなわち医療資格のない候補者を精神分析トレーニングに受け入れることについては、大きな相違が残っていた。フロイトは1926年に『素人分析の問題』で賛成の立場を示した。しかし、アメリカの学会は、専門家の基準や訴訟リスクの懸念を表明し、フロイトに断固として反対した(ただし、児童分析家は免除された)。こうした懸念は、ヨーロッパの学会員にも共有されていた。最終的には、学会が候補者の基準を設定する際の自主性を認めることで合意に至った。
1930年にフロイトは心理学とドイツ文学への文化的貢献が認められ、ゲーテ賞を受賞した
患者たち
フロイトは自分の症例集に偽名を使っている。仮名で知られている患者には、リトル・ハンス(ヘルベルト・グラフ、1903-1973)、ねずみ男*(Rat man、エルンスト・ランザー、1878-1914)、エノス・フィンギー(ジョシュア・ワイルド,1878-1920)、狼男(セルゲイ・パンケジェフ、1887-1979)であった。他の有名な患者は、ブラジルのペドロ・アウグスト王子(1866-1934)、H.D.(1886-1961)、エマ・エクスタイン(1865-1924)、グスタフ・マーラー(1860-1911)、マリー・ボナパルト公女、エディス・バンフィールド・ジャクソン(1895-1977)、アルバート・ハースト(1887-1974)などであった。
*ねずみ男(Rat man):
S.Freudが約11ヶ月間精神分析治療した強迫神経症患者。フロイトは、この経験を基に、1909年に「強迫神経症の一例に関する考察」と題する論文を発表した。29歳の弁護士である患者は、軍隊で肛門にねずみを押し込むねずみ刑の話を聞いて以来、「父と恋人がこの刑を受けたら大変」という強迫観念に苦しむようになる。S.Freudはこの患者の分析を通して、思考の万能、疑惑、両価性、反動形成、隔離、肛門サディズム段階への欲動の退行、思考現象の性愛化などの強迫神経症の特性を明らかにした。
癌
1923年2月、フロイトは自分の口の中に白板症(多量の喫煙に伴う良性の増殖)を発見した。フロイトは当初このことを隠していたが、1923年4月にアーネスト・ジョーンズに報告し、腫瘍が取り除かれたことを告げた。フロイトは皮膚科医のマクシミリアン・シュタイナーに相談したが、禁煙を勧められたものの、この腫瘍の深刻さについては嘘をつき、その重要性を最小限に抑えた。その後、フロイトはフェリックス・ドイッチュに診てもらったが、彼はその突起が癌であることを見抜き、専門的な診断である上皮腫ではなく「悪い白板症」という婉曲表現を使ってフロイトにそのことを告げた。ドイチュは、フロイトに禁煙と腫瘍の切除を勧めた。フロイトは、以前からその能力に疑問を持っていた鼻科医マルカス・ハイエクの治療を受けることになった。ハイエクは、自分のクリニックの外来で不必要な美容整形を行った。フロイトは手術中も手術後にも出血したが、なんとか死を免れた。その後、フロイトはドイチェに再診を受けた。ドイチェは、さらに手術が必要であることを見抜いたが、フロイトが自殺を試みるかもしれないと心配し、癌であることをフロイトに告げなかった。
ナチスからの脱出

フロイトの終の棲家で、現在はフロイト博物館として彼の生涯と作品に捧げられている(20 Maresfield Gardens, Hampstead, London NW3, England)。
1933年1月、ドイツはナチス党に支配され、フロイトの著書は際立ち、焚書にされ、焼却・破壊された。フロイトはアーネスト・ジョーンズにこう語っている。「我々はなんと進歩しているのだろう。中世では私は焼かれていただろう。今では私の本を燃やして満足している」。フロイトはナチスの脅威の高まりを過小評価し続け、1938年3月13日のナチス・ドイツによるオーストリア併合とそれに続く激しい反ユダヤ主義の勃発の後でも、ウィーンに留まることを決意し続けた。国際精神分析協会(IPA)の会長だったジョーンズは、フロイトに心変わりをさせイギリスに亡命するように仕向けようと、3月15日にロンドンからプラハ経由でウィーンに飛んだ。この見通しと、ゲシュタポによるアンナ・フロイトの逮捕と尋問の衝撃で、フロイトはついにオーストリアを離れる時が来たと確信した。ジョーンズはその翌週、フロイトによって提供された移住許可証が必要な人々のリストを持ってロンドンに向かった。ロンドンに戻ったジョーンズは、内務大臣のサミュエル・ホア卿との個人的な知り合いを利用して、許可証の付与を迅速化することに成功する。全部で17件の許可が下り、必要に応じて労働許可証も発行された。ジョーンズは科学界にも影響力を行使し、王立協会会長のウィリアム・ブラッグ卿を説得してハリファックス外務大臣に手紙を書かせ、フロイトのためにベルリンとウィーンで外交圧力をかけるよう要請し、良い効果をあげた。フロイトはまた、アメリカの外交官、特に彼の元患者で駐仏アメリカ大使のウィリアム・ブリットからも支援を受けていた。在ウィーン米国総領事のジョン・クーパー・ワイリーが、ベルクガス19番地の定期的な監視を手配したのである。また、アンナ・フロイトがゲシュタポに尋問された際にも、電話で介入している。
ウィーンからの出発は1938年4月から5月にかけて段階的に始まった。フロイトの孫のエルンスト・ハルバーシュタットとフロイトの息子のマルティンの妻と子供たちは4月にパリへ出発した。フロイトの義理の妹であるミンナ・バーネイズは5月5日に、マーティン・フロイトはその翌週に、フロイトの娘のマチルデとその夫のロバート・ホリシャーは5月24日にロンドンに出発した。
その月の終わりには、フロイト自身のロンドンに向けて出発する段取りが、ナチス当局との法的にも金銭的にも苛酷な交渉に巻き込まれ、行き詰まることになった。ナチスの新体制がユダヤ人に課した規制により、フロイトの資産と、フロイトの自宅近くに本部があったIPAの資産を管理するコミッサールが任命されたのである。フロイトは、ウィーン大学でフロイトの旧友ヨーゼフ・ヘルツィヒ教授のもとで化学を学んでいたアントン・ザウアーワルド博士に割り当てられた。ザウァーバルトはフロイトについてさらに学ぶため、彼の著書を読み、彼の境遇に同情するようになった。フロイトの銀行口座すべての詳細を上司に開示し、IPAの事務所に保管されていた歴史的な蔵書を破棄するよう要求されたが、ザウァーバルトはどちらもしなかった。代わりに、フロイトの外国の銀行口座の証拠を彼自身の金庫に移し、IPA図書館の保管をオーストリア国立図書館に戦争終結まで保管するよう手配した。
ザウァーヴァルトが介入したことで、フロイトの申告資産に対する「飛行」税の負担は軽減されたものの、IPAの負債やフロイトが所有していた貴重な古美術品のコレクションに関しては、他にも多額の課徴金が課された。フロイトは自分の口座にアクセスすることができず、フロイトの信奉者の中で最も高名で裕福なフランス人のマリー・ボナパルト王女に頼ったが、王女はウィーンを訪れて支援を申し出ており、必要な資金を用意してくれた。これにより、ザウァーヴァルトはフロイトと妻のマーサ、娘のアンナの出国ビザにサインすることができた。彼らは6月4日に家政婦と医師を伴ってオリエント急行でウィーンを出発し、翌日にはパリに到着し、ボナパルト王女の賓客として滞在した後、夜行でロンドンに向かい、6月6日にヴィクトリア駅に到着した。
フロイトのもとには、サルバドール・ダリ、ステファン・ツヴァイク、レナード・ウルフ、ヴァージニア・ウルフ、H・G・ウェルズらがまもなく敬意を表するために訪れた。王立協会の代表者は、1936年に外国人会員に選ばれたフロイトのために、王立協会の憲章を持って電話をかけ、会員になるための署名を求めた。6月末にはボナパルト王女が到着し、ウィーンに残されたフロイトの4人の老姉妹の運命について話し合った。その後、彼女たちの出国ビザを取得する試みは失敗し、彼女たちはナチスの強制収容所で死亡することになる。
1939年初頭、ザウアヴァルトは謎めいた状況でロンドンに到着し、フロイトの弟アレクサンダーと知り合った。1945年、ナチ党幹部としての活動を理由にオーストリアの裁判所で裁かれ、投獄された。フロイトの妻からの嘆願に応えて、アンナ・フロイトはザウァーヴァルトが「父を守るために我々が任命したコミッサール(委員)としての地位を利用した」ことを確認するために手紙を書いた。彼女の介入により、1947年に彼は釈放された。
フロイト夫妻の新居である、北ロンドン、ハムステッド、マレスフィールド・ガーデン20番地には、フロイトのウィーンの診察室が細部にわたって忠実に再現されている。彼は、病気の末期まで、この部屋で患者を診察し続けた。また、1938年にドイツ語版、翌年に英語版が出版された『モーゼと一神教』、死後に出版された未完の『精神分析の概要』の執筆に取り組んだ。
死
1939年9月中旬、フロイトの顎の癌はますます激しい痛みを伴い、手術不能と宣告された。彼が読んだ最後の本、バルザックの「無念の思い」は、彼自身がますますもろくなっていることを反省させ、数日後、彼は医師、友人、仲間の難民であるマックス・シューアに、以前彼の病気の末期段階について話し合ったことを思い出させた。「今は拷問以外の何物でもないし、何の意味もない」。シュールが忘れていないと答えると、フロイトは「アンナとよく話し合って、彼女が正しいと思うなら、それで終わりにしてください」と言った。アンナ・フロイトは父の死を先延ばしにしたいと考えていたが、シューアは父を生かしておくことは無意味だと説得し、9月21日と22日にモルヒネを投与した結果、フロイトは1939年9月23日の午前3時頃に死亡した。しかしながら、フロイトの最後の時間における彼の役割についてシューアが行った様々な説明には食い違いがあり、それはフロイトの主な伝記作家の間で矛盾を引き起こしていたため、さらなる調査と説明の改訂を行うことになった。これは、アンナ・フロイトの同僚であるジョセフィン・ストロス博士がモルヒネの3回目の最終投与を行った際に、シューアがフロイトの臨終の床にいなかったため、1939年9月23日の真夜中頃にフロイトが死亡したというものである。
フロイトの死後3日目に、息子のエルンストの指示で、ハロッズが葬儀社を務め、北ロンドンのゴルダーズ・グリーン斎場で火葬された。葬儀は、アーネスト・ジョーンズとオーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクによって執り行われた。フロイトの遺灰は、その後、火葬場のアーネスト・ジョージ・コロンバリウムに納められた。遺灰は、息子のエルンストがデザインした台座の上に置かれ、ボナパルト王女から贈られ、長年ウィーンの書斎に保管していた、ディオニュソスの場面が描かれた古代ギリシャのクラテルの封印に収められている。1951年に妻マーサが亡くなると、彼女の遺灰もこの骨壷に納められた。
フロイトの私生活
1886年、ハンブルクの首席ラビであったアイザック・バーネイズの孫娘、マーサ・バーネイズと結婚した。二人の間には6人の子供がいた。マチルデ(1887年生まれ)、ジャン・マルタン(1889年生まれ)、オリバー(1891年生まれ)、エルンスト(1892年生まれ)、ソフィー(1893年生まれ)、アンナ(1895年生まれ)である。

フロイト家(1898年) 前方:ソフィー、アンナ、エルンスト・フロイト 中央:オリバー・フロイト、マーサ・フロイト、ミンナ・バーネイズ 後方:マーティンとジークムント・フロイト
1891年から1938年にウィーンを離れるまで、フロイト一家はウィーンの歴史地区であるインネレ・シュタット近くのベルクガッセ19番地のアパートに住んでいた。

ウィーンのベルガッセ19番地の家 フロイトは1891年から1938年にロンドンに移住するまでの47年間、家族と一緒にこの家に住んでいた。

ベルガッセ19番地にあったフロイトの自宅兼診療所への階段 有名なソファのあるフロイトの書斎には、約半世紀にわたって患者が出入りしていた。このソファとほとんどの書籍、コレクション、家具は、現在、フロイト夫妻の亡命先であるフロイト美術館(ロンドン)にある。
1896年、マーサ・フロイトの妹であるミンナ・バーネイズは、婚約者の死後、フロイト家の常連となった。彼女はフロイトと親密な関係を築いたため、カール・ユングの不倫の噂が広まった。1898年8月13日にスイスのホテルで発見された、フロイトが義理の姉と旅行中に署名した日誌が不倫の証拠として提示されている。
フロイトは24歳の時にタバコを吸い始めた。当初はタバコを吸っていたが、やがて葉巻を吸うようになった。彼は、喫煙が自分の仕事能力を高め、それを抑制するために自制心を発揮できると考えたのだ。同僚のヴィルヘルム・フリースからの健康上の警告にもかかわらず、彼は喫煙を続け、最終的に口腔がんを患うことになった。 フロイトは1897年にフリースに、タバコを含む依存症は「一つの偉大な習慣」である自慰行為の代用品であると示唆した。
フロイトは、知覚と内観の理論で知られる哲学教師のブレンターノを非常に尊敬していた。ブレンターノは、『経験的立場からの心理学』(1874年)の中で、無意識の存在の可能性を論じている。ブレンターノはその存在を否定しているが、彼の無意識に関する議論は、おそらくフロイトに無意識という概念を紹介するのに役立ったと思われる。フロイトは、チャールズ・ダーウィンの主要な進化論的著作を活用しており、エドワード・フォン・ハルトマンの『無意識の哲学』(1869年)にも影響を受けた。フロイトにとって重要な他のテキストはフェヒナーとヘルバルトによるものであり、後者の『科学としての心理学』はこの点で過小評価されていると言わざるを得ないほど重要であった。フロイトはまた、無意識と共感の概念に関する現代の主な理論家の一人であるテオドール・リップスの研究を引用した。
フロイトは自分の精神分析の洞察を以前の哲学的な理論と関連付けることには消極的だったが、彼の仕事とショーペンハウアーやニーチェの仕事との類似性に注目が集まっていた。彼自身は晩年までこの2人を読まなかったと主張している。
ある歴史家は、フロイトと青年時代の友人であるエドゥアルト・シルバースタインとの文通に基づき、フロイトは17歳のときにニーチェの『悲劇の誕生』と『反時代的考察』の最初の2編を読んだと結論づけている。 1900年、ニーチェが亡くなった年に、フロイトは彼の著作集を買った。彼は友人のフリースに、ニーチェの著作の中に「私の中に沈黙している多くのものを表す言葉」を見出したいと語った。後に彼は、まだそれを開いていないと言った。フロイトはニーチェの著作を「研究される以上に抵抗されるべきテキストとして」として扱うようになった。彼の哲学への関心は神経学の道に進むことを決めた後、低下していった。
フロイトが神経学に関心があったことはあまり知られていない。彼は、当時「脳性麻痺」として知られていたテーマの研究に早くから取り組んでおり、いくつかの医学論文を発表した。そして、当時の他の研究者がこの病気に気づき、研究し始めるよりもずっと前から病気が存在していたことを明らかにしたのである。フロイトは、ウィリアム・リトルの「出産時の酸素不足が脳性麻痺の原因である」という説は誤りであると指摘するのみならず、出産時の合併症は症状のひとつに過ぎないという説を唱えた。このような彼の推測が、より現代的な研究によって裏付けられるようになったのは、1980年代になってからである。
フロイトは生涯を通じてウィリアム・シェイクスピアを英語で読んでおり、彼の人間心理に対する理解はシェイクスピアの戯曲から部分的に得られたのではないかと言われている。
フロイトのユダヤ人としての出自と世俗的なユダヤ人としてのアイデンティティへの忠誠は、彼の知的道徳観の形成に大きな影響を及ぼし、特に知的不適合に関しては、彼が自伝的研究で最初に指摘したとおりである。また、精神分析的な考え方の内容、特に深層心理の解釈や「法による欲望の束縛(欲望を法で縛ること)」という共通の関心事に関しても大きな影響を与えることになる。
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