イド、自我、超自我はときに実体的なものと解されがちであるが、実際にはパーソナリティのもつさまざまな過程、もしくは機能に名づけられた名称である。三つの過程はそれぞれ独自の原理をもつが、普通は自我によって統合され、まとまったパーソナリティとしての機能をはたす。

エス(イド)・自我・超自我の関係性
引用『史上最強カラー図解 臨床心理学のすべてがわかる本』著:原 達哉
フロイトはこのモデルを1920年に『快楽原則を超えて』という論文で論じ、『自我とイド』(1923年)の中で、それまでのトポグラフィ・スキーマ(意識、無意識、前意識)に代わるものとしてこのモデルを発展し詳しく説明した。

心の3構造
引用『史上最強カラー図解 臨床心理学のすべてがわかる本』著:原 達哉
イド(エス)
イド(id、エス)は完全に無意識の、衝動的な、子供のような精神の部分であり、「快楽原則」に基づいて作動し、基本的な衝動や駆動の源であり、即時的な快楽や満足を求めるものである。イドは精神のもっとも原始的な基盤となる層、自我は現実に適応する機能を強調するときの主体、超自我は人間社会の道徳が個人にとり入れられたものと考えることができる。
イド(ラテン語:id)はエス(ドイツ語:es、英語のitに相当する)ともいわれ「それ」とか「第三者」という非人称の主語である。この言葉を用いることによってフロイトは人を支配する深い力に含まれている非人格的、非意志的、無意識的、自然的なものを表現しようとした。イドは人の心の内部にありながら自分の意のままになりえない存在、意志による統制の困難な原始的衝動を意味している。イドに含まれる内容は、人が生得的にもっている生物学的、心理学的なあらゆる資質である。すなわち本能的諸欲動と、人類が長い系統的発生の経過の中で貯えられた民族的記憶もあり、個人発達の初期に抑圧された記憶もこれに含まれる。したがってイドはパーソナリティの基礎であり、後述する自我や超自我の母胎である。イドは人のあらゆる欲望や衝動の源泉であり、自我と超自我にエネルギーを供給するものである。
イドのはたらきは内的衝動の満足、欲求の解消であり、この過程を支配する法則は快楽原則と名づけられる。快楽原則にしたがった追求の仕方は外界の現実を無視したもので、適切な対象を選択したり、妥協したりせず、ただ苦痛を避け、快楽を性急に追求するものである。イドの発動が現実の世界の抑制を受けないとすると、人は快楽原理にそった行動に終始する存在にとどまることになるであろう。このようなときにイドにしたがった行動は外部環境からの罰を受け、適応するという目標を達成することができなくなる。イドがすべてであった新生児のパーソナリティは現実社会との接触が行なわれるようになると、その抑制や干渉をうけ、かかる過程を通して自我がしだいに分化していくのである。
*フロイトは、彼がId(das Es、「それ」)という言葉を使っているのは、ゲオルク・グロデックの著作に由来することを認めている。イド(id、ラテン語)とエス(es、ドイツ語)は呼び方が違うだけであり、同じものを指す。英語のイット(it、それ)に相当する。エス(ドイツ語の外国語の非人称代名詞、非人称の主義)は、英語でいえば「it」であるが、例えばit rains(雨が降る)、it’s sunny(寒い)のように未知の力によって規定されていることを表す。これと同じような意味で、人間の心理も、意識的に統制することのできない未知の力(生得的な衝動のようなもの)によって規定されていることを表すため、エスという用語が使用されている。
超自我(スーパーエゴ、superego)
超自我(スーパーエゴ)というのは、その社会に伝統的に存在し、社会や両親を通して子どもに伝達される価値体系である。超自我は精神の道徳的構成要素であり、ある状況において道徳的に正しいことが正しくないかもしれないという特別な状況を考慮しない。子どもは両親や教師の態度や意見を受け入れ、また賞讃されたり叱責されたりしながら自分自身の行動や考え方を社会的に是認されるような方向に形成していく。超自我は現実ではなく理想を、快楽ではなく完全を望むものである。自分の行動に対する反省や批判、理想の形成などはこの超自我のはたらきによるものであり、これにそむくと恥、恐れ、罪悪感などの感情が生じる。性的衝動、攻撃的衝動のようにその表出が社会によってきびしく非難されるような衝動を禁止するのも超自我の機能である。
自我(エゴ、ego)
自我が発達的に出現するのは人が現実の世界との適切な相互交渉を必要としはじめるときである。イドにおいては心に浮かぶ主観的な現実のみを扱うが、自我の過程は心の中の対象と外界の対象とを区別する過程である。この過程を支配する法則を現実法則という。現実法則の目標は欲望の満足のために適切な現実的な対象が発見されるまで、緊張の解消を延期または阻止することである。別の言葉でいえば快楽原則にもとづく行動を一時停止することである。自我は現実的に思考し、欲求満足のための計画をたて、現実の事態に合うように行動を統制するものである。自我は現実の要求を受けながら、他方それと個人の最大限の満足とを両立するように調整する意識的知性とでもいう役割をはたしている。
理性的な自我(エゴ)は、エス(イド)の非現実的な快楽主義と超自我(スーパーエゴ)の同じく非現実的な道徳主義との間のバランスを厳密に取ろうとする;それは通常、人の行動に最も直接的に反映される精神の部分である。超自我は、そのタスクによって過剰な負担や脅威を受けると、否定、抑圧、打ち消し(取り消し)、合理化、逃避などの防衛メカニズムを用いることがあります。この概念は通常「氷山モデル」によって表される。このモデルは、エス(イド)、自我(エゴ)、超自我(スーパーエゴ)が意識的・無意識的思考との関係で果たす役割を表している。
フロイトによれば、健康な状態というのは自我が精神の主体となり、イドの欲求を超自我や現実の要請に応じながら満足させていく状態である。
フロイトは、自我(エゴ)とエス(イド)の関係を、馬車馬と馬の関係になぞらえ、馬がエネルギーと駆動力を提供し、馬車馬が方向を示すとした。
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