アドラーの生涯 とは | 意味・まとめ by wikiSmart ウィキスマート

心理学
アルフレッド・アドラー(Alfred Adler、ドイツ語発音: [alfreːt aːdlɐ] アルフレート・アドラー、1870年2月7日 – 1937年5月28日)は、オーストリアの医学者、心理療法家、アドラー心理学(個人心理学)の学派の創始者。 アドラーは、人間が家族、社会、国家、世界の中でどのように存在し、相互作用しているかという全体の文脈の中で人間の発達を考察した。特に、劣等感の重要性を強調し、人格形成に重要な役割を果たす要素として認識されている。アルフレッド・アドラーは、人間を「分割できない存在(分割できない統一体)」として捉えていたため、自分の心理学を正式に「個人心理学」と呼んだ(Orgler 1976)。個人心理学はアドラー心理学としても知られており、この「分割できない存在」である人間は、決定と選択の能力を持ち、自ら選んだ目的や目標に向かって生きるとアドラーは考えていた。

幼少期

アルフレッド・アドラーは、現在オーストリア・ウィーン市15区のルドルフスハイム・フュンフハウスである、ルドルフスハイムのマリアヒルファー通り208番地(当時はウィーンの西端にあった村) で生まれた。彼は、ハンガリー生まれのユダヤ人穀物商の父レオポルドと妻パウリーネの間にできた 7人兄弟の2番目だった。彼の弟ルドルフはジフテリアにかかり、アルフレッドがわずか3歳のときに隣のベッドで亡くなっている。

アルフレッドは子どもの頃、活発で人気があったが平均的な学生で、兄のシグムンドに対して対抗意識を燃やしていることでも知られていた。

幼い頃からくる病にかかり、4歳まで歩くことができなかった。4歳の時、肺炎で危篤状態になり、医師が父に「息子さんは絶望的です」と言うのを聞いた。奇跡的にも一命をとりとめたが、その時、彼は医者になることを決意した。これは、アドラーが、自分が病弱だという劣等感を補償(克服)することを決めた瞬間でもあった。アドラーは学問分野に関して、心理学、社会学、哲学といった分野に非常に興味を持っていた。1895年、ウィーン大学で医師の資格を取得後、眼科医として活躍し、後には神経学と精神医学を専門とした。

医師キャリア

1895年、アドラーは眼科医としてキャリアをスタートさせたが、すぐに一般医に転向し、1898年にはウィーンのあまり裕福ではなかったツェーリンガッセ7丁目のレオポルドシュタット地区にあるプラター遊園地(遊園地とサーカスの複合施設)の向かいに個人病院を構えた。彼の顧客にはサーカス団員も含まれていた。アドラーはここである発見をする。それは、サーカス団員の曲芸師や道化師(ピエロ)の多くが身体的な劣等感を抱えているが、それを克服するために厳しい訓練をし、頑丈な体を手に入れたということである。 アドラーは彼らとの経験から、劣等感は神経症の原因にもなりうるが、活力と勇敢さを伸ばす要因にもなりうる、と考えるようになった。彼らサーカス団員の話と、並外れた長所と短所(身体的な問題)が、彼の「器官劣等性*」と「補償*(劣等感を克服しようとすること)」に関する洞察につながったのである。

すべての人は劣等感を持っている。しかし、劣等感は病気ではない。むしろ、健康で正常な努力と成長への刺激である。 ー「個人心理学講義」P45

個人心理学のもっとも重要な発見は、劣等感が、人生の有用な面へと向かう刺激になりうるということである。 ー「人はなぜ神経症になるのか」P8

*器官劣等性:
A.アドラーが提唱した概念である。幼児の生活に困難(恥辱・困難・不便を感じさせる)をもたらすような身体的なハンディキャップ(身体的な欠点・障害・問題・奇形)を意味する。

*補償:
全体としてのシステムが欠如した部分を補い、全体としてよりよい機能を維持しようとする傾向のことをいう。アドラーの個人心理学では、身体的諸器官、たとえば感覚器官の欠陥や弱さは心理的に補償(克服)されると考えられる。デモステネスは言語障害であったが雄弁家に、フランクリン・ルーズベルトは小児麻痺(まひ)を克服して大統領になったという。身体的器官に限らず、なんらかの欠点、弱さからおきてくる劣等感は、補償され優越感を求めようとする。劣等感が強すぎると過補償がおこり、かえって問題が生じることになる。ユングの分析心理学では、補償は心的構造の内部に働く無意識的な調整機能であり、夢の最大の機能は意識に対する補償作用である。補償の概念は、基本的には生物を全体として統一のとれた組織とみなし、部分が全体に規定されていることを前提にする。

1902年、アドラーはジグムント・フロイトから、ルドルフ・ライトラーやヴィルヘルム・シュテッケルらが参加する非公式の討論グループへの招待を受けた。このグループは「水曜会」(Mittwochsgesellschaft)と呼ばれ、水曜日の夜にフロイトの自宅で定期的に開かれ、精神分析運動の始まりとなり、時を追うごとに、多くのメンバーが参加するようになった。毎週、メンバーの一人が論文を発表し、コーヒーとケーキの短い休憩の後、グループで議論するというものだった。主なメンバーは、オットー・ランク、マックス・エイティンゲン、ヴィルヘルム・ステッケル、カール・アブラハム、ハンス・サックス、フリッツ・ヴィッテルス、マックス・グラーフ、サンドル・フェレンツィであった。1908年、アドラーは「人生と神経症における攻撃的本能」という論文を発表したが、この論文はフロイトが初期の性的発達が人格形成の主要な決定因子であると信じていた時期のものであり、アドラーはこれに意義を唱えたのである。アドラーは、性的衝動と攻撃的衝動は「もともとは別々の2つの本能であり、後に融合する」と提唱したが、当時のフロイトはこの考えに反対していた。

後にフロイトが1920年の『フロイトの快楽原則を超えて』で、リビドー(性的衝動)と攻撃的衝動の二重本能説を提唱した際、アドラーを引用しなかったことから、フロイトより先にアドラーが1908年の論文で攻撃的衝動を提唱していたと非難された(Eissler, 1971)。フロイトはその後、1923年にリトル・ハンスの事例に加えた脚注で「私自身、攻撃的本能の存在を主張せざるを得なかった」(1909年、p.140,2)とコメントし、攻撃的衝動の概念がアドラーのものとは異なることを指摘している。グループの長年のメンバーであったアドラーは、この1908年の重要な貢献の他にも多くの貢献をし、8年後の1910年にはウィーン精神分析協会の会長に就任した。アドラーは1911年までフロイトのサークルの会員であったが、彼と彼の支持者たちは、正統派精神分析からの最初の反対者として、フロイトのサークルから正式に脱退した。これは、19世紀三大巨匠の一人、カール・ユングの1914年の離脱に先立つものであった(三大巨匠の残り2人はフロイトとアドラーであり、ウィーン精神分析協会に同時期にいたもののアドラーとユングの交流はほとんどなかった)。この脱退は、フロイトとアドラーがお互いに嫌い合うようになっていたこともあり、両者にとって好都合であった。アドラーは、フロイトの考え方と分岐した独自の考え方をしていたからである。アドラーはしばしば「フロイトの弟子」と呼ばれているが、実際には決してそうではなく、彼らは同僚であり、フロイトは1909年に彼を印刷物で「私の同僚、アルフレッド・アドラー博士」と呼びかけた。1929年、アドラーはニューヨーク・ヘラルド紙の記者に、フロイトが1902年に送ってきた色あせた絵葉書のコピーを見せた。彼は、自分がフロイトの弟子ではなく、むしろフロイトが考えを知るためにアドラーを探し出したことを証明したかったのである。

アドラーは、精神分析運動から離れた後、1912年に自由精神分析研究会を設立、1914年には会の名称を個人心理学会と改称した 。アドラーのグループには当初、正統派ニーチェの信奉者(彼らは、権力と劣等感に関するアドラーの考え方はフロイトよりもニーチェに近いと信じていた)も含まれていた。彼らの敵意はさておき、アドラーはフロイトの夢に関する考えを生涯にわたり賞賛し続け、夢の臨床的活用に科学的アプローチを作り出したと信じていた(Fiebert, 1997)。それにもかかわらず、夢の解釈*についても、アドラーは独自の理論的・臨床的アプローチをとっていたのである。アドラーとフロイトの最大の相違点は、心理学にとって社会的領域(外面性)は内部的領域(内面性)と同様に重要であるというアドラーの主張であった。権力と報酬の力学はセクシュアリティを超えて広がっており、ジェンダーと政治はリビドーと同じくらい重要であり得るというものである。さらに、フロイトはアドラーの社会主義的信念を共有しておらず、例えばアドラーの妻は、レオン・トロツキーなど多くのロシアのマルクス主義者と親密な友人であった。

*夢の解釈:
アドラーは、人間の精神過程を分割できないと考えており、精神の産物である「夢」と「ライフスタイル」は密接に関係していると主張した。

一般に人は夢の中の出来事をそうそう覚えてはいないが、アドラーは、 夢の目的を、 夢を見た後の「感情の余韻」を作り出すことであり、その作り出された気分や感情の余韻が、ライフスタイルの変更を余儀なくされている時でも、 従来通りのライフスタイルを堅守し強化するために利用されると主張した。アドラーは試験を前にしている人の夢を一例としてあげ比較した。

  1. 自身のない人・・・山の斜面から落ちる夢
  2. 自身のある人・・・日の当たった草原を歩いていて、突然、すばらしい城が目の前に現れ、喜びと興奮に満たされる夢

1よりも2の人物の方が試験に前向きな気持ちで臨めるのはいうまでもなく、アドラーは、1の人物は試験を受けなかったとしても驚くに当たらないとも述べている。アドラー心理学では、 夢は「問題に対する答えを提供する」とされ、人が夢を見る時の目的は、未来に対する案内を探し、問題を解決することであるとされる。 一方、心理学三大巨匠の一人であるフロイトは、夢は「人の満たされない欲求を満たすものである」と考えていた。

私は、夢の生活が覚醒時の生活とは矛盾しないことがわかった。それは、いつも人生のもう一つの動きと表現に並行している。 昼間に優越性の目標を目指して努力していれば、夜も同じ問題に従事しているのである。誰もが、覚醒時の生活において持っているのと同じ問題を夢の中でも根底において持っている。夢は、それゆえ、ライフスタイルの産物であり、ライフスタイルと一貫していなければならない。ー『人生の意味の心理学(上)』 P123

それゆえ、夢の目的は、コモンセンスの要求に対して、ライフスタイルを守ることである。これがわれわれに興味深い洞察を与える。コモンセンスに従って解決したくない問題に直面していれ ば、その態度は夢の中で喚起される感情によって強めることができる。ー「人生の意味の心理学(上)』 P125

アドラー派

フロイトとの決別後、アドラーは独立した心理療法の学派と独自の人格理論を築き上げ、大きな成功と名声を得た。アドラーは25年間に渡り、社会的志向の強いアプローチの普及を目指し、旅行や講演を行った。アドラーは、心理的幸福と社会的平等との全体的な整合性(総体的統合性)を主張し、心理学における他の団体に匹敵し、さらには取って代わるような運動を起こそうとしていた。しかし、アドラーは第一次世界大戦中、オーストリア・ハンガリー軍に軍医として従軍していたため、その活動は中断された。アドラーの任務は、肉体的あるいは精神的に傷ついた兵士を速やかに治療し、戦地に戻すことであったが、その軍医としての経験はアドラーの思想に大きな影響を与えた。アドラーは戦争の悲惨さを目の当たりにしたことで、アドラーは自国民は当然として他国民も人類は皆仲間であり、戦争は同胞に対する組織的な殺人と拷問だと考えるようになった。アドラーはまた、文明が必要としているのは個人主義ではなく、「深い同情、利他主義、無私無欲」であること、民族は違っても、すべての人が他者に貢献する共同体感覚が不可欠だという結論に至った。その立場を個人心理学会の会員に宣言したが、突然宣教師のようなことを言い出すアドラーに会員の何人かは嫌気がさし、学会を退会する事態に発展した。

そのような展開はあったものの、アドラーはこの考えを発展させ続け、人は全体の一部であり全体と共に生きていることを実感するという共同体感覚の重要性を主張するようになった。アドラーは共同体感覚を拡大していくと、パートナーや家族のみならず、地域や社会、民族、全人類にまで広がり、さらに、動植物や無生物、地球、宇宙まで広がることもあると主張し、ついには共同体感覚を宇宙にまで拡大したのである。

(共同体との)一体感、共同体感覚は、精神がひどく病んだ時にだけ失われる。 それを人は制限さ れたり、あるいは、拡大されて、少し色合いを変え、形を少しばかり変えることはあっても、生 涯にわたって持ち続け、 良好な状態の時には、家族だけではなく、一族、国家、全人類にまで拡 大する。さらには、この限界を超え、動物、植物や無生物まで、ついには、宇宙にまで広がる。ー「人間知の心理学』 P50

この共同体は、例えば人類が完全の目標に到達した時に考えることができるような永遠のものと見なさなければならない。 決して現在ある共同体や社会が問題になっているのではなく、政治的なあるいは宗教的な形が問題になっているのでもない。むしろ完全のために最も適当な目標が問 題であって、それは全人類の理想的な共同体、進化の最後の完成を意味する目標でなければならない。ー「生きる意味を求めて』 P224~225

終戦後、アドラーの影響力は大いに増した。1920年代には、多くの児童相談所を設立し、1921年からは欧米で頻繁に講演を行い、1927年にはコロンビア大学の客員教授に就任した。成人への臨床では、「洞察」と「意味」という治療機能を用い、症状の隠れた目的を明らかにすることを目的とした治療を行った。

アドラーは、優越感や劣等感の克服に関心を持ち、分析カウチ(フロイトは患者を分析用の長い寝椅子である”カウチ”で横に寝かせた。フロイトの考えの基本は「夢は欲求を隠している」というものである。リラックスした状態で頭に思いついた方法を話すことである「自由連想」をすることが、患者の無意識の願望に気付ける方法であるとフロイトは主張している。「自由連想法」では治療者は患者が話している間は話に介入せず、連想が終わってから本人の生育歴や前日の行動などを加味し、分析してから解釈を与えた。)を捨てて2つの椅子を用意した最初の心理療法家の一人であった。これにより、臨床家と患者がほぼ対等な立場で共に座ることができるようになった。臨床的には、アドラーの方法は、事後的な治療にとどまらず、子供の将来の問題を先取りして予防することにまで及んでいる。予防策としては、社会的関心や帰属意識を高め、家庭や地域社会の文化的変化を促し、甘やかしやネグレクト(特に体罰)を根絶することが挙げられる。アドラーの人気は、彼の考えが比較的楽観的で理解しやすいことと関係していた。彼はしばしば一般大衆向けの書籍を書いた。アドラーは、常にタスク志向(課題志向)の実用的なアプローチを維持していた。この「ライフタスク(人生の課題)」とは、仕事(職業)、共同体生活(社会・友情)、愛(恋愛・性愛)のことである。その成功は、協力関係にかかっている。アドラーの有名なコメントにあるように、「人生のタスク(課題)はすべて、互いに交差する光を投げかけている」ので、これらを単独で考えることはできない。

神経科医で心理学者のヴィクトール・E・フランクル博士は、ベストセラーとなった著書『夜と霧(人間は意味を求めるものだという内容)』の中で、フロイト学派、アドラー学派に次ぐ自らの「第三ウィーン派心理療法」とアドラー分析を比較している。

ロゴセラピー(ロゴセラピー(意味中心療法 ; 実存分析、英語: Logotherapy)とは、人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法のこと。 創始者は、神経科医で心理学者のヴィクトール・フランクル。)によれば、自分の人生に意味を見出そうとする努力は、人間の主要な原動力である。だから、フランクルはフロイトの精神分析が中心となっている「快楽原則」(あるいは「快楽への意志」ともいう)やアドラー心理学が強調する「権力への意志」との対比で、「意味への意志」を語っているのである。

移住

1926年、アドラーは初めてアメリカの地を訪れ、講演を行った。(キリスト教に改宗したにもかかわらず)ユダヤ人の血を引いていることを理由にアドラーが経営していたオーストリアの病院のほとんどが1930年代初めに閉鎖されたため、1935年、アドラーはオーストリアを離れアメリカへ移住し、その後、アメリカのロングアイランド医科大学の教授に就任し医科心理学の広義を行っていた。アドラーのアメリカでの人気は非常に高く、アドラーはすぐ最高レベルの収入を得る講演家となり、運転手付きの車で各地を飛び回っていた。

1937年頃、アドラーの長女はロシア政府に拉致されていたがアドラーはヨーロッパへ講演へ向かった。1937年5月、スコットランドのアバディーンで、アバディーン大学を3週間訪問中に連続講義を行っていたが、最終日の5月28日、アドラーが倒れて歩道に横たわっているのが目撃され、心臓発作(死因は心筋の変性)で急死した。心労もあったと推測されている。駆けつけた男性が彼の襟を緩めると、アドラーは息子の名前である「クルト」とつぶやき息絶えたのである。アドラーはこのとき67歳だった。遺体はエディンバラのワリストン火葬場で火葬され、遺灰は回収されなかった。2007年にワリストン火葬場の棺の中で遺灰が再発見され、2011年にウィーンに戻って埋葬された。

アドラーの死は、彼の思想の影響力に一時的な打撃を与えたが、その後、新フロイト派に多くの思想が取り入れられた。アドラーの思想やアプローチは、死後70年以上経ってもなお、米国のルドルフ・ドレイカーズをはじめとする世界中の多くの信奉者の活動を通じ、強固で生き生きとしたものであり続けている。

世界各地のさまざまな組織が、精神的・社会的幸福に関するアドラーの考え方を広めている国際アドラー夏季学校・研究所委員会(ICASSI)、北米アドラー心理学協会(NASAP)、国際個人心理学協会などである。オーストリア、カナダ、イギリス、ドイツ、ギリシャ、イスラエル、イタリア、日本、ラトビア、スイス、アメリカ、ジャマイカ、ペルー、ウェールズに教育機関やプログラムがある。

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